August 17, 2009

我家を真ん中に両隣、3軒並んで喪中になりました

高齢化社会になった事を実感する出来事です。
6月末には左隣の娘さんの87歳のお母様、先週末は95歳の私の父、今週末は右隣の郵便局長さんの96歳のお母様が亡くなりました。
父は4年前に我家に引っ越してきたので、お互いにお付き合いしていたわけではなく、全くの偶然です。
この不順な気候、年寄りには応えるのかもしれません。

3人共、可なりの高齢ですから、天寿を全うし、子供、孫、ひ孫達に賑やかに見送られての旅立ちでした。

局長さんが、「時期が悪かった。お盆でお坊さんが皆忙しくて、やっと来てもらえる事になったけれど、お通夜と告別式は別々のお坊さんで・・・本当に参りました」とか・・・
ご町内の参列者の面々も、我家の不幸との間が5日間だったので「喪服をお盆休みの洗濯屋さんから取り戻した」とか・・・
斎場でそんな話しがさり気なくできるのも、天寿を全うされたと信じられるからです。

高齢者とのお別れは、悲しみの中にも無事見送れたという一種の安堵感のようなものが漂っていて、長生きする事の意味はそんなところにもあるのかもしれません。

すぐお近くの時宗総本山“遊行寺”の塔頭からみえたご導師の読経が、静かに心に染み入りました。
読経の流れる中お線香の香りに包まれて、少し落ち着きを取り戻したような気がしています。


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August 14, 2009

父を天に見送りました

コブクロの“CALLING”を聴きながら、時々、止めどなく流れる涙に身を任せています。

悲しみの涙か?と問われたら、多分違うと・・・

我慢強い人でした。
入院してからも、いつでも、どんな体調の時でも「お父さん大丈夫?」と気遣うと、途切れ途切れに「だ・い・じ・ょ・う・ぶ」と必ず返してくれました。
亡くなる2週間程前から、39度の熱が下がり切らなくなり、「大丈夫」の言葉は返ってこなくなりました。
その代わり、熱が少し下がると定まらぬ目が「まっちゃん、もお、ええわ~」と訴えているように思えて、切なかった・・・

親を失った悲しみと言うより、長い間同じ思いを共有した同士がいなくなったような寂しさが心の中にひたひたと広がっています・・・

乾杯のコップを持って微笑んでいる父の遺影を見ながら思い出していた事は、子供時代の思い出でも、華やかなNYでの生活でもありません。
母が精神的に不安定になってから10年以上、ただただ父と二人で力を合わせて母を守り、母を守る為に励まし、慰め、褒め、そして母を思う余りに争い・・・支え続けた日々を・・・

でも母が大変だったから、いつもあなたの事は後回しでしたね。
それでも母の為に駆けずり回っている私に「迷惑を掛けるな~、有難うよ」と、いつも・・・

最大の願いだった母を見送る、大仕事を終え、日々衰えていくあなたと母の思い出話をしながら1年ちょっと、あなただけの為に穏やかに介護が出来てよかった。

無事両親の介護を終えられたのは、大勢の、数えられないほどの大勢の人達の助けのお陰だと感謝しています。

そして、僕は住む場所と緊急時の労力を提供しますから、後は親子でお好きなように・・・
一日7~8人のヘルパーさんが我家を訪れ、誰の家だか分からないような状態が数年続いても、可なり際どいブラックジョークで私を苦笑させながら、常に冷静だった主人。
本当にありがとう。

一昨年末、母を見送った時は1滴も出なかった涙、今二人分の別れの涙を誰にも遠慮もせずに流し続けています。

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July 13, 2009

天命庵のお話ー物事の受け取り方、考え方

天命庵にお話を伺いに、捻挫以来始めて自力で行ってきました。
主人に連れて行ってもらうと、仕事の関係でどうしても、午後のお話しか伺えないのですが、今回は一人で午前からゆっくりと・・・

《大阪、南の道頓堀川は人口池です。船を浮かべてお祭りをするのですが、人口池には神様をお奉りしていないので、八大竜王様をお迎えする事になりました。
七夕の日の11時からお祭りを始めました。
そうすると、雷と土砂降りの雨、太陽と風。それが10分の間に大雨、大風、太陽と雷と、10分間だけですけれど・・・その後ぱーと晴天になったのです。
八大竜王さまは、天気の神様で雨の神様と言われています。

私も素直ですから「神様が来たという事を教えて下さっているんですよ」とお側の方々にそっと耳打ちしましたら「そうですか~~」と・・・
それまで「雨だ、え~ぇ~」と渋い顔をしていた方々が、心が変わると顔が変わりますね。
「神様が来たと言っているのですよ」“ごろごろごろ”と雷が鳴るのを聞いて 、
“ハッ”となさって「大徳寺さんが仰るから、そうですよ」と皆さんにこにこと笑顔になられて・・・
人間というのは受け取り方が変わると、顔が変わりますね。
はっきり分かります》

《桂米團次さんの襲名披露講演の最終日行ったのですが、大雨だったのです。
楽屋にお伺いすると、桂米團次さんが「どうして私の襲名講演のラストがこんな雨なんですか?」と残念そうに言われるので、
「雨が降って地固まる、地が固まって、一生懸命日本国中廻って蒔いた芸の種が実る咲かせる雨ですよ」と言いますと「ほっ!そうですか」
丁度そこに花禄さんがいまして、米團次さんが花禄さんに嬉しそうに話されて、又、それを講談の時に、会場にいた800人位の方に伝えられたら、皆さんが「まぁ~」と・・・
人間、変わりますね。
それまで「なんでこの襲名のラストに大雨なんだろう」と会場中シュンとしていたんですよ。
それが、米團次さんが「雨降って地固まって、種から芽が出る縁起が良い雨です」と言ったら、お客様がら拍手が沸き起こったのが印象的でした。
今日、親様がおっしゃったように、人間の考え方、受け取り方を変えるだけで人間の気というのが変わるわけですね。
それが、人間の心が曇っていると駄目なんです。。
受け取り方を変える。気持ちを変える。それだけで、皆さんから出てくる気も顔つきも変わると感じました。》
と言うような事を、最後に大徳寺さんが話されました。

神様は、いろんな場面場面で、そのつど示し申されています。
“神”とは、示す偏に申すと書きますから。
それも必ず、良い事に繫がっていく道を示めされています。
でも、私達はそれをマイナスに受け取る事が多いような気がします。
自分の望んでいるようにならないと、悪い事のように思ってしまう。

“大雨が降った”その状況は何も変わらないのに、受け取り方を考え方を180度変えれば、全く違った世界が広がって行きます。

いつも物事を良い方に受け取り、考える事の大切さを、学ばせて頂いています。

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July 05, 2009

人生は気の向く事だけして、とはいかないようで・・・

入会して5分後の帰り際に転倒、お休みしていたスポーツジムに3ヶ月ぶりに行ってきました。
リハビリの為の水中ウオーキングを勧められたのと、3ヶ月動かなかったので体が固まって体調が芳しくないので、思い切って始めました。
どちらにしろ、私は金づちなのでウオーキングしか出来ないのですが。
始めは2往復からと言われたのですが、水の中は何の不安もなく歩けるので3往復、幾らでも歩けそうだったのですが自制しておきました。

N・Yの学生時代、体育の授業が必須科目でした。
最初の授業で、25m泳ぐテストがあり、合格すると水泳の上級クラス、又はテニスその他、自分の好みのスポーツを選べます。
泳げない私は、自動的に水泳の授業を受ける破目に・・・
学期末のテストはプールの一番深い所から飛び込んで底を蹴って浮上し泳ぐ。
教授と助手2人の万全の態勢の中で行われます。
「危なかったら、直ぐ助けるから出来るところまで」と言われてトライしたら、なんと25m泳ぎきって無事合格。

その夏、学生仲間の婚約パーティーに呼ばれました。
N・Y郊外には、プール付の家が多く、彼女の家にも大きなプールがありました。

水泳の授業に合格して“B”を貰ったと自慢していたので、いざ!お披露目。
でも、でも、浮いただけで前には進まず。
仲間達から「アメリカの男性は女性に甘いからな~」とからかわれました。
25m泳げたあれは一体何だったのでしょうね。まぐれというか“火事場のバカ力”のようなものだったようで・・
人生で泳げたのは、後にも先にもあの時の1回きりとなりました。

体を動かすのが苦手で、気功とかピラティスのような軽い動きのもの以外、スポーツとは無縁で生きてきたし、生きて行くつもりでした。
ところがそうは問屋が卸さないようで、人生はよく出来ています。
怪我のリハビリと、再び転ばない為に筋肉を付ける運動をせつせとする事に・・・
気の向く事だけして生きてゆく、では済まされないようになっているのですね、きっと。

我家には、私よりもっと運動をした方が良さげな主人がいます。
車で連れて行ってもらい、帰りにお昼を食べて、とジム通いを楽しむ事にしました。
父の病院通いとジム、気分転換にもなっていいかもしれません。

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July 02, 2009

95歳、治療の選択

朝9時、電話が鳴りました。
父の入院している病院から、検査の結果が思わしくないので輸血をした方がよい状態ですが・・・どうしましょうか?と。

何時からなのでしょうね?
治療をどうするか?家族が決めなくてはならなくなったのは・・・
輸血をしなければ、命が危ないのならば「輸血をしますから、同意書に署名に来てください」と言ってもらえれば、それで全ては決まることなのですが・・・

答えは決まっていても、改めて決断を迫られて、それも即決となると、一瞬『どないしょう???』姉が2人いますし・・・

一昨年亡くなった母の時もそうでした。
ただ、母の時は90過ぎの父がまだしっかりしていたので、医師からの情報を出来るだけ正確に伝えて、父の意見を聞き、それを姉達に伝えてまとめていました。

前日お見舞いに行った時、最近のうちでは調子が良さそうで、院長さんと「ちょっと落ち着いていますね」と立ち話をしたばかりだったので、急変に驚いたこともあり、
「私が決めないといけないのですか~~~」と思わず大きな声を・・・
「今は了解を得てから治療をしないと訴訟問題になりますので・・・」
そうなのですよね。それもよく分かっています。

医療の進歩で選択肢が増えました。
医療側で選択肢を増やして、決断は全て患者側にと言われても・・・
特に高齢者は治療をする事によって、人間らしい生活が送れるようになることは難しい場合が多いですから。

姉達の意見を聞く時間がなかったので院長先生に「宜しくお願いします」と返事をした後、事後報告。
その折「そろそろ、娘3人で院長先生とお会いして自分達の考えを伝えておいた方がいいと思うのだけど」と聞いてみました。
長女は「あなたの判断に任せるから。あなたの考えが私達3人の意見でいいから」と、いともあっさりと。
このよく考えないで答えるタイプは、後が難しいのです。
次女の主人はプロテスタントの牧師でクリスチャン、余り自分の意見を主張するタイプではなく、後でジュックリお祈りをしているようです。
3日間の輸血が終わる日に、関西からお見舞いに来るので、時間が合ったら一緒に院長先生に会うことにしました。

私達3人は“もう95歳ですから出来るだけ穏やかな最後を”と願っているのですが、お若い院長先生にどの程度その思いが通じるか分かりません。


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June 29, 2009

『南無阿弥陀仏』は全てを阿弥陀様にお任せする

との意と、時宗のご導師がご近所のおばあちゃんの葬儀で言われました。

昨年まで、娘さん(といっても67歳ですが)ご夫婦とご一緒に住んでおられました。
ご夫婦で血相変えて「姿が見えない」と近所を探し回られたり、デパートで呼び出しのアナウスを耳にしたりと、段々認知症が進んで大変そうでした。
お近くに良い民間の老人ホームがみっかり、最後はそこで迎えられました。

ご近所の方が亡くなられると、主人が自治会長をしているので、知らせがきます。
ご町内に、お通夜、葬儀の場所と日時等の緊急の回覧を出します。

ところがこの頃、これがなかなか難しいのです。
家族葬にするので、伏せておいてほしいとの事もあれば、
“近親者のみで”との知らせを受けて、そのつもりでいると、遠慮しておられる事が分かり慌てて回覧を回したりとか・・・

今回も、娘さんが「母が亡くなりました。葬儀は近親者だけでいたしますので、お宅とお向かい(遠縁に当たられる)だけにお知らせします」
と、亡くなった日時、葬祭場、お通夜、葬儀の日時が書いた紙を持って尋ねて来られました。

急な事で本当にビックリし、お悔やみを述べながら、一段落して『さて、どうしょう???』
身内だけでなさる場合は、後から正式な連絡がくるか、詳しい内容は知らせないのが普通なものですから・・・
「身内だけで」と何度も言われるけれど、ここまで詳しく知ってしまって、おばあちゃんと戦前からお付き合いのあった“地の方々”に黙っているのも心苦しいし・・・
「本当に親しくしていた方にお知らせしなくていいのですか・・・最後のお別れをしたい方がおられると思うのですが・・・」とやんわりと聞いてみると、
「あら、そうですわね~それではお任せします」
『いや・・・その・・・お任せされても困るのですが・・・何方まで知らせるかはご自分で決めて頂かないと・・・』(これ本心です)

ご導師さまが「今夜、読経の中で、何度も『南無阿弥陀仏』と申し上げました。
ご家族は、亡くなった方に“ああもしてあげたかった、こうしてあげれば良かった” 。
又、亡くなった方が“ああもしたかったのではないか?心残りがあるのではないか?といろいろ思われるでしょう。
「南無」はお任せする。全てを阿弥陀仏にお任せする。後は阿弥陀さまに全てをお任せします。と言う事です」
「そして今晩は皆さんで、亡くなられた方の“所作、笑顔、志、嗜好、思考”この5つを偲んであげて下さい」と話されました。

この頃は、お別れの仕方にもいろいろあって、どれがどうとは言えません。
でも、ご導師のお話を聞きながら、おばあちゃんを偲んでくださるご近所の方々にお知らせして、よったのではと思いました。


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June 21, 2009

リハビリが始まりました \(^o^)/

「そろそろ杖は使わなくても大丈夫」とか「しっかりテーピングしてあるから包帯はもういらないかな?」と整骨院の先生に言われても、「もうちょっと今のままにしておいて」と私がストップを掛けるような状況が、ここのところ続いていました。
先生も無理にとは言わないタイプの方で、私が納得するのを待っていた様子。

昨日突然「そろそろリハビリに入りましょうか?ちょっと痛い位で、過激な事はしませんから」と断わってから、靭帯損傷した方の足をぐりぐりと可なりの力で揉みほぐしだしました。
私、痛みには滅法弱いので“痛かったら騒ぐわよ!”と身構えたのですが、騒ぐ程の痛みではなくホッ!
「私の足そんなに揉んで壊れないの?」
痛くないと分かって余裕がで、結構失礼な事をさらりと聞いてしまう悪い癖が・・・
「よ~~くほぐしておかないと、将来気候の変化によって、俗に言う“古傷が痛む”事になるから、ちゃんとリハビリしておきましょうね」と言いながら、先生も“痛い”と騒がれなくてほっとしている様子。
扱い難い患者ですみません。
なにせ大きな怪我は生まれて初めてなもので・・・

その後、10度の傾斜の付いたボードに起立。
痛くも痒くもなくて楽勝と思ったら、体は正直で、見る見る足首から下が真っ赤に。
物凄い負担が掛かって足が頑張っているからだそうで、でも1回目は3分だったのですぐお仕舞い。
傾斜を段々20度~25度に上げて慣らし、リハビリの最終はクッションボードに片足で上手に立てるようになる事。
そこまで筋力を付けると、年を取ってからの転倒の危険性がぐっと低くなるそうです。

「怪我をして動かないでいると、誰でも筋肉が落ちて当然だけれど、香川さんはもともと筋力がないから、頑張らないと、またすぐ蹴躓いて転ぶよ」と言われてしまいました。
何か一々言われる事が、つい数ヶ月前まで、私が両親の介護をしながら常に言っていた事と同じで・・・それにしてもちょっと言われるの早過ぎ!

私、気が向いた事はとことん努力するのですが、向かないと見向きもしない性格でして、体を動かすのをサボってきたツケが早々と回ってきたようで、焦っております。

リハビリをもう少ししたら“歩く、ただ歩く、ひたすら歩く、歩く為に歩く”
足にあった靴を履いてせっせと歩けば、足腰を鍛えるのは今からでも遅くないと言われました。
筋力は充分あるけれど、メタボ気味の主人を誘って一緒にテクテク歩きます。

怪我のお陰で2ヶ月半ゆっくり休めたし、足腰の鍛え方も教わったし、大収穫です。

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June 17, 2009

臓器移植法改正について(1)

現行法(97年成立)では、「本人に脳死からの臓器提供の意思がある場合のみ脳死は“人の死”(それ以外は心臓死が人の死)」と定められています。
この定義でいくと“人の死”は、条件によってくるくる変わるものなのですね。

そんなバカなことが・・・と思っていたら、法的な整合性がとれるよう「死」を定義する、科学的な死の定義を今国会で決めようとしているようです。
政治家のお仕事は「法律」を作る事なのですから、政治家が「人の死を定義」するのは当然の事なのですが、それでもとても違和感を抱いています。

3年後の見直し規定が放置されて9年経つ現行法。
海外では臓器移植の実施が進んでいるのに、日本では臓器の提供数が増えない事。
世界的に臓器移植は自国での動きある事。

それで、何とかしなければと焦っているように私には見受けられるのです。
「脳死は人の死」と定めるかどうか、重い哲学的判断、生命倫理まで含まれる難しい問題だからこそ、なかなか議論が進まなかったのではないでしょうか。

それぞれの国に、医療制度の在り方、救急医療制度、医師への信頼、命のみとりの文化等の違いがあり、脳死移植への考え方に差が生じるのはいたし方ない事です。
日本には、心身を統合的にとらえようとする仏教的思想が土壌にあり、又、みとりの時間を大切にする文化的な背景もあります。

“死”を国会議員の専権事項にしてしまうのではなく、日本に根ざしている生死感に沿って、国民の選択が反映できるような法体系を整えてほしいと思っています。

朝日新聞の『臓器移植インタビュー』に国会議員で小児科医の阿部知子氏は
「国内でも子供の臓器提供を解禁すべきだとの声が出ていますが」の問いに
「『移植が必要』といわれる子供を減らすことの方が本質的に大事だ・・・本当のよりよい治療をすれば、移植を求める子供の数が大幅に減ると思う」と答えています。
そのことも含め、臓器移植法改正の採決をする前に、議論されるべき問題が山の様にありそうです。

でも何よりも私が感じている事は、物事を考えるには順序というものがあるのではないかと・・・
まず人の死とは、人間がどのような状態になった時をもって決めるのか。
脳死をもって“人の死”と定義する事に、国民が本当に納得できるのか。
そのような議論は、臓器移植に関係する人達を除いてなされた方がより公正なように感じます。
臓器移植についての議論はその後でなされて然るべきものではないかと・・・
その議論の中で、多くの人が納得できる日本型生命倫理を構築していく必要があるのではないでしょうか。

生命にかかわる重要法案が、充分な議論もなされないまま、会期末を控えた時に駆け込みで採決されてしまうことに、不安を禁じ得ません。

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June 08, 2009

「足利事件」の菅家さん釈放と「裁判員制度」

日本でまさに“裁判員制度”が開始されようとするこの時期に菅家さん釈放、様々な問題を投げかけているように感じます。

「疑わしきは罰せず」刑事裁判の原則だそうです。
ラテン語の直訳は「疑わしきは被告人の利益に」とも言うそうです。
裁判員に選ばれたら肝に銘じておきたい言葉ですね。
完全な人間なんていません。
人間は故意、故意でなしにかかわらず、過ちを犯す可能性のある存在です。
不完全な人間が、人を裁く。
しかも裁判官のように学校で司法の勉強をしたことのない一般の人が、ある日突然、裁判員になるのです。

「疑わしきは罰せず」
それでは罪を犯した者が得をするとか、被害者の立場はどうなるのか、と思う方がいるかもしれません。

老子の言葉に「天網(てんもう)恢恢(かいかい)疎(そ)にして漏らさず」
“天の張る網は、広大で一見目が粗いようであるが、悪人を網の目から漏らすことはない。即ち天道は厳正で、悪事を行えば早晩必ず捕らえられ、天罰をこうむる”とあります。

日本でも一頃まではお年寄りが「お天道様(オテントウサマ)が見ているよ」とよく言っていたものです。
“人の目は、見える所でしか判断しないけど、お天道さまは、陰日向(かげひなた)なくすべて見透かしている。だから、悪いことはしてはいけない。必ずした事の報いは返ってくる”と。

何も法治国家を止めて、全てを天に任せましょう、と言っているわけではありません。

ただ人智を尽くして検証しても、それでも疑がわしい時、後は天に任せよう。
そんな思いに至った時、検察、弁護団、被害者、マスコミ等の誰の側にも巻き込まれず、正しい判断に少しでも近づけるかもしれないと、思ったりします。

罪を犯した人を、裁くのは当然のことです。
でもその過程で、冤罪を生み出すような事があっては決してなりません。
人間は全ての事に白黒をつけられる程完全ではない。
そして人間が研究したものは、DNA鑑定も含めて、可なり正確なのでしょうが、完璧ではないはずです。

「裁判員制度」“疑わしきは罰せず”“人間は完全ではない” この2の事を、常に頭に置きながら謙虚な姿勢で臨める環境が創られることを願っています。

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June 05, 2009

北の核実験と祈り

「北朝鮮のことは本当に人間の奢り高ぶりですね。地下であのような核実験をしたり、まさに地を汚すという事は、天地の理を狂わすわけであります。
今日の大雨を見て、神様が地を汚されて清めているように思えてなりません。
人間の奢り、自分の権力を示そうとする事が、まさに様々な障害を作ってしまいます。
・・・人間の奢りというのは怖いものです。地下で核実験をして、それによって大地に歪が起こる。起こった歪は、天にも地にも現われます。
人間の奢り高ぶりで起こした事が自然界の流れを変え、水の流れを変え、奢りによって世の中の動きを皆変えてしまいます。
どうすればいいのでしょうか。
祈る事です。お詫びをする事です。
何万分の一でも皆さんがお詫びをして、それこそこのような爆弾の実験をした人々の代わりに詫びをする。
祈るという事は凄い力なのですよ。与える事であります」
天命庵の親さまが“北の核実験”について、こんなお話をされました。

遅々として進まない拉致の問題、独裁者に虐げられている人々、私達の国の上空を飛んでいった自称人工衛星、そして核実験。
いつも『世界の大国が自国の利害ばかり考えているから解決できないのではないか』と苦々しく思っていました。
勿論一番愚かなのは北のトップですけれど・・・

韓国が融和政策を実施しても、国連が事あるごとに制裁決議を出して実行しても、何も変わらないと言うか、おかしくなる一方です。

どうでしょう、こんな時は、祈ってみたら・・・
各人が、それぞれの場で、時間のある時に“北の人々の人間らしい暮らしを、真っ当な政治が行われる事を、核爆発によって汚された自然が清められる事を”心を込めて祈ってみては・・・
祈りには一銭のお金も掛からないのです。
数分間、心を込めるエネルギー以外は何もいらないのです。
人間って不思議なもので、“ただ”だと効き目が無いような気がします。
お高いと如何にも効果がありそうな気分になります。
そうゆう方は変な宗教団体に騙されやすいのですよ。
自然に神に祈るのに、お金は掛かりません。
真心をお供えすれば良いのです。
手詰まりな時は、祈れる人は祈りを奉げる。
大切な事だと信じています。

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