December 26, 2006

3年振り、暮れの大掃除。

一昨年の暮れは母が大腿骨骨折で人工骨董の手術を受けて入院中、病院の母と実家の父の世話で暮れもお正月もありませんでした。
昨年は骨盤骨折で3ヶ月の入院の後、体重21kgになってお正月を過ごしに我家に。
3日後から発熱、お正月明けに再入院でした。
今年は有難い事に、今のところ何とか平穏に新しい年を迎えられそうな気配です。

というわけで大掃除らしいものをボチボチしております。
主人の実家、自分の実家と後片付けが続いた弾みで、そこいらを整理して物を捨てまくっています。
流石、大正生まれの両親の子、いろいろ溜め込んでありますわ。
何時か使えるかもしれないと思って・・・
しかし、物を捨てるのって勿体ないですね。
頂いた物もありますが、殆んどはお金を出して買った物。
捨てるという事はお金を捨てているのと同じことで・・・
昔は物を大事に使い、修理し直して、寿命を全うさせてから捨てていましたが、今はまだ使える物をどんどん処分していきます。
物によっては新品を買うのと同じ位修理代が掛かる時代ですゆえに。
『なんとかならないのかな』などと思いながら整理しております。

お陰で、棚もクローゼットも押し入れも、物がゆったりと心地よさ気に納まっております。
そんな中で特に見ちがえる程綺麗になったのは、私の机の上。
数年前、「机の上が5分でクチャクチャになる人」とのタイトルの本を見て、主人と息子の顔が浮かび『読ませたいなぁ~』と思ったことがあります。
ところがここ数年は『私が読んだ方がいいな~』という状態です。
机の上は、ブログに書きたいと思う新聞や雑誌の切り抜きが溜まってお山ができていました。
その山が時々崩れて床に・・・

それにつけても綺麗好きだとか整理整頓がうまいというのは、今まで単にそうしていられる状況にあっただけのこと。
状況が変わればそんなものは吹っ飛んでしまうものだとしみじみ感じています。
何事につけても人の事はとやかく言えない。
自分自身が相手と同じ状態になった時にどうゆう行動するか、それは本当にその立場になった時でないとわからないことなのです。

さてさてこの美しい状態がいつまで続きますことやら。
来年の暮も又必至になって片付けをしているかもしれません
でも新たに物を買うのは程々にしておきます。
今あるものを上手に使って生活していきたいと思っています。

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April 25, 2006

病人力

赤瀬川原平氏が「病気旅行に出かける」とのタイトルで「う・ら・ら」という健康冊子にエッセイを書いていました。
氏は画家であり作家だそうです。

《病気はチャンスだと思う。
成りたくて成る人は一人もいない。
でも時と場合によっては成ってしまう。
自分から成れないものに成ったのだから、これはチャンスだと思うようにしている。
一定期間、病気の世界を通り抜けていく。
いわば病気観光、病気旅行だ》

病気を旅行や観光に例えるとは凄い発想!
でも確かに似たところがあるような・・・
健康な時には見えなかった風景、気付かなかった事に気付く。
日頃、考えもしなかった人生や生死について深く熟考するチャンスでもあります。
よく病気になって人生観が変わった、と言う人がいます。
病人力を得たのでしょうね。
病気を含めてどんな事でも、出会ったことを経験として生かす、人生の糧にしていく、大切なことだと思います。
人間は何からでも学ぶことができるようになっているようです。
それを生かせるかどうかは、全て受け取り方、考え方次第ですが・・・

《自分が病気になって思うことは、人体の病気と地球の天気はどことなく似かよっていることがある。
自分の体が晴れたり曇ったり、だいたいの理由はわかるのだけど、それが高じて嵐になったり、雹(ひょう)が降ったりして驚く。
健康なときは体は体にまかせているが、病気になると体がありありと見えてくる。
僕はそれをチャンスだと思うのである》
子供の頃から体の弱かった私には、とても頷けるエッセイでした。
私が得た病人力は、神の存在を知った事です。
そして病気旅行には終わりを告げました。

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September 14, 2005

「私にとって神とは」遠藤周作著から(3)

“神が私に対してどう働いてくれたかといったら、それは私の場合、母親というものを通して、あるいはそのほか私の人生において非常に関係の深い人を通してという形で働いてくれました。
その働いてくれる人は、必ずしもいい人ばかりとは限りません。
自分を傷つけた人とか、自分が傷つけた人も無数にいるでしょう。
もう一つ、悪の中にも罪の中にも神の働きがあるということを言っておかなければなりません。
どのようなものにも神の働きがあるということです。
病気でも、物欲でも、女を抱くことにでも神の働きがあるということを、小説を書いているうちに私はだんだん感じるようになりました。
神は存在じゃなく、働きなんです”
 氏の意味するところは、自分にとってのいい人、悪い人という事だと思うのですが、反面教師というのは確かに大きい存在ですよね。
 子育てをしている時、親というのは子供から『親のようになりたい』でも『親のようにはなりたくない』でもどちらに思われてもいい。親を通して何かを学び、それを人生に生かしてくれればそれでいいのだ、と聞いたことがあります。
人生で出会う全ての人間同士が、与え、与えられて生きているのですね。
 “悪の中にも罪の中にも神の働きがある”
 “どのようなものにも神の働きがある”
神の働きがあるという事は“悪”も“罪”も悪い事のように見えるだけで、本当は悪い事ではないのではないかと思います。
病気も死をも全て含めて。
 私はこの世は神が創造したと信じています。
ですから、どのようなものの中にも神の働きがあるのは当然ではないかと・・・
神の働きである以上、全ては良き事に繋がることのはずだと・・・
 天命庵の親様は、「神様は人間が陽気に暮らす姿を見て、ご自分も楽しみたいとこの世を創られた」と説いています。
 神はこの世に悪いことは一つも作っていないのです。
人間の、思い方、考え方、受け取り方、見方一つなのです。
 


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September 12, 2005

「私にとって神とは」遠藤周作著から(2)

“高橋たか子さんという小説家がいます。
私と同じ仏文を勉強していた関係で、参考書を借りに来ました。
キリスト教に興味を持ち始めたところで、ご主人が亡くなられたのです。
やがて私が紹介して神父に会いました。
その神父がまた誰かを彼女に紹介して、その紹介から修道院へ行ったのです。
それからそこの紹介でパリへ行きました。
そうした過程をみると、彼女にとって無駄なものは一つもなかったのです。
偶然と思ったものは、決して偶然ではなくて、ある一つの働き、つまり神の働きがそこにあったということを彼女自身も小説「装い(よそおい)せよ、わが魂」に書いています。
それを読んで、あ、私と同じだな、と思いました”
 この箇所を読んだ時、私も「皆、同じだなのだな~」と感じました。
 父の仕事の関係で高校の卒業と同時にニューヨークで暮らすことになり、ひょんな事から国連の教会でボランティアをし、ワシントンD.Cの大学院に留学していた主人と、同じ大学に留学していた高校時代の恩師に紹介され結婚することになり、帰国して義理の姉に最初新興宗教を、それから天命庵を紹介され、神へと繋がっていきました。
 一見ばらばらに見える一つ一つの関係なさげな出来事が、実は偶然でも、たまたまでもなく、振り返ってみると、全て無駄なく一つの線に連なって私の人生を創りあげているのです。
 人生で起こる事に、無駄な事も偶然も一つもないのです。
後になって振り返った時、今出会っている出来事の本当の意味が分かるのではないでしょうか。
 ただ、今という時を大切に生きる事が大事だと感じています。


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September 09, 2005

「私にとって神とは」遠藤周作著から

遠藤周作氏はキリスト教カトリック信者としての観点から書いておられます。
特定の宗教宗派に属さない私ですが、読んでいてピッタリ感じる部分が多々あります。
「神の存在を感じる時」の内容を引用させてもらいます。
“もしあなたが、私が今まで話してきたことを聞いて、キリスト教に興味を持ち、やがて洗礼を受けたとすると、神は直接目に見えるわけではないけれども、私という者を通して、あなたに働きかけたことになる。
神はいつも、誰か人を通してか何かを通して働くわけです。
私たちは神を対象として考えがちだが、神というものは対象ではありません。
その人の中で、その人の人生を通して働くものだ、といった方がいいかもしれません”
神の働き、言葉は、隣人からくると聞いた事があります。
だから隣人を、身近な人を大切に。
そして、出会いを大切に。
出会う人は皆、あなたにとって神なのかもしれないのですから。
“あるいはその人の背中を後ろから押してくれていると考えた方がいいかもしれません。
私は目に見えぬものに背中に手を当てられて、こっちに行くようにと押されているなという感じを持つ時があります。
その時神の働きを感じます”
私は、遠藤周作氏のように感性が豊かではないので、「背中を後ろから押されている」という感じを持ったことはないのですが、後から振り返ってみて、このよう仕向けられたかな?と思うことはあります。
特に神の存在を信じるようになってから、そう感じることが多くなりました。
そして助けられたというか、見守られていると感じています。

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July 21, 2005

誰がために鐘は鳴る

ヘミングウエイの小説の冒頭にジョウ・ダンの詩が載っています。
 なんびとも 自ら充ち足りた島にはあらじ
 ひとはみな 大陸の一部 人類の部分なり
 よそびとの死にありて、われも価値を減ず
 そは 人類の部分ゆえに

 それゆえに尋ねるなかれ
 誰がために弔いの鐘は鳴ると
 そは 汝がために鳴る

イギリスののどかな田園で、誰か村人が亡くなったのでしょう。
教会の弔いの鐘の音が、田園の澄んだ空気をもの悲しく響かせてゆきます。
だが、誰が死んだのですか、誰のために弔いの鐘が鳴っているのですか、と、人ごとのように尋ねることは決してしないでください。
なぜならば、たとえあなたの知らない人のための弔いの鐘であったとしても、その人は大陸の一部であり、人類の部分であるから。
 人間は宇宙に存在する全てのものと繋がつています。
一つの命は、地球の一部であり、人類の一部なのです。
大陸と人類とは無関係に存在することはできない、ということになると、人類は共に生きているのですから、赤の他人が死んだ場合でもそれは自分と無関係な出来事ではありません。
それ故、人の死は人類と共にあなた自身の価値を減じてゆくのです。
人類の価値が減ることは、同時に自分の価値が減っていくことです。
他人の死は自分の死でもあるわけです。
だから教会の鐘は、あなた自身を弔う鐘の音なのです。

 自分の命は、自分だけのものではないのですね。
自分の知らないところで、あらゆる物とつながっているのです
 だから自分の命も、他人の命も、地球上の生きとし生きるもの全ての命を、大切にしなければいけないのです。
 この詩はそんなことを、訴えかけています。

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June 27, 2005

芹沢光次郎氏の本との出合い

『神の微笑み』(新潮社発行)の話を、10数年前全く関連のない二人の信頼できる知人から、さり気無くでも何度も聞かされました。
 その頃私は、神とは無縁の某新興宗教団体を自分の意志で卒業したばかりでした。
宗教団体や組織は一度経験すれば充分と思っていたので適当に聞いていたせいかもしれませんが、何度聞いても話しの内容がよく理解できませんでした。
 それでもニューヨークのキリスト教会でボランテアをして以来、神への淡い関心は抱き続けていました。
それと某会で学ぶうちに、世の中には人間の努力ともう一つ『何か』が働いているのではないか、漠然と感じたことへのヒントがあるかもしれないと思い直して、本ならばと軽い気持で手に取ってみました。
 「文学は 物言わぬ 神の意思に 言葉を あたえることである――」と始まる『神の微笑』は、にわかには信じ難い物語が知性と品位を感じさせる美しい文章で綴られていました。
90才までの人生をあらためて振り返りながら、次々と新たに起こる不思議な体験-天理教の存命の親さまとの出会い、神の世界と死の世界への訪問、大自然の親神の人間への思惑等、フィクションなのかノンフィクションなのか、両方が描かれているのかよく判断できないままに次第に内容に惹き込まれてゆきました。
行間から感ずる人生に真摯に向き合ってこられた姿、誠実な生き方が、不思議な内容に真実味を与えていました。
 本の中に一貫して語られている神とは特定の宗教宗派のものではなく、大自然その物。
宇宙を創造しそして生かし続けている偉大な力。
自然界その物が唯一の神であるという考えは、今まで宗教を通して感じていた神とは全く違う新しい大発見でした。
そして何よりも大いなる者の素晴らしさと人間との関係、人が人としていかに生きてゆくべきか、心に染み透るように静に語られていました。
 その時は、本の中に登場する伊藤青年から「天命庵」で“神の教え”の話を直接伺う日が来るとは、思ってもいませんでした。

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June 15, 2005

星の王子さまー目に見えないもの(2)

 私達の思い、心から思いを取り出して、手に取ることも見ることも出来ません。
でも一人一人の心の中にはいろいろな思いがあります。
優しさ、思いやり、愛、怒り、悲しみ、苛立ち。
その人が表情に、動作に、言葉に思いを出せば解かります。
しかし、思いを胸の内に秘めていたら周りの人には見ること(感じること)が出来ないのです。
 一年前、長崎で小学六年生の女の子が級友をカッターナイフで殺害する、信じ難い程痛ましい事件がありました。
少女の心の中で何か起こっていたのでしょうか?
友の命まで奪わなければならないほどの憎しみが、どうして積もってしまったのでしょうか?
少女の思いを誰も見、察することはできなかったのです。
でもこれは私たち大人の社会の責任です。
《目は口ほどにモノを言う》《目は心の窓》と言います。
日頃から周りの大人が少女の目を見て挨拶を交わし目を見て話をしていたら、心の中の思いを見ることはできなくとも何らかの変化に気付くことはできたのではないかととても残念に思います。
少女の周りに成績や進路等目に見える部分を心配する大人はいても、心を育む、温かく見守って安心感をあたえる等子育てにとって一番大切な目に見えない部分を、私達大人が疎かにしてしまっていることに大きな原因があると思います。
 医師のように「私は目に見えないものは信じない。だから神は信じない。」と言うのは、実に単純明快に聞こえます。
でもこれは間違っていると私は思います。
 世の中には目に見えない物も確かに存在しています。
ゆえに神も存在している、と主張するつもりもありませんけれど。
 私達は目に見える物質に心を奪われ、何か目に見えるものだけで世の中が成り立っているように思い込んでいますが、実は世の中の大切な部分は目に見えないもので成り立っているのです。
 目に見えない“未来”は、目に見えない“人の思い”によって作り出されていきます。
 私達の一番大切なもの、命、生きとし生ける物の生命を見ることはできません。
目に見えない神が、目に見えない命を創造しているのです。
 フランスの有名な童話『星の王子さま』(サン・テグジュペリ著)の中でキッネが王子さまにこう言っています。
「さっきの秘密をいおうかね。なに、なんでもないことだよ。心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目に見えないんだよ」

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