July 13, 2009

天命庵のお話ー物事の受け取り方、考え方

天命庵にお話を伺いに、捻挫以来始めて自力で行ってきました。
主人に連れて行ってもらうと、仕事の関係でどうしても、午後のお話しか伺えないのですが、今回は一人で午前からゆっくりと・・・

《大阪、南の道頓堀川は人口池です。船を浮かべてお祭りをするのですが、人口池には神様をお奉りしていないので、八大竜王様をお迎えする事になりました。
七夕の日の11時からお祭りを始めました。
そうすると、雷と土砂降りの雨、太陽と風。それが10分の間に大雨、大風、太陽と雷と、10分間だけですけれど・・・その後ぱーと晴天になったのです。
八大竜王さまは、天気の神様で雨の神様と言われています。

私も素直ですから「神様が来たという事を教えて下さっているんですよ」とお側の方々にそっと耳打ちしましたら「そうですか~~」と・・・
それまで「雨だ、え~ぇ~」と渋い顔をしていた方々が、心が変わると顔が変わりますね。
「神様が来たと言っているのですよ」“ごろごろごろ”と雷が鳴るのを聞いて 、
“ハッ”となさって「大徳寺さんが仰るから、そうですよ」と皆さんにこにこと笑顔になられて・・・
人間というのは受け取り方が変わると、顔が変わりますね。
はっきり分かります》

《桂米團次さんの襲名披露講演の最終日行ったのですが、大雨だったのです。
楽屋にお伺いすると、桂米團次さんが「どうして私の襲名講演のラストがこんな雨なんですか?」と残念そうに言われるので、
「雨が降って地固まる、地が固まって、一生懸命日本国中廻って蒔いた芸の種が実る咲かせる雨ですよ」と言いますと「ほっ!そうですか」
丁度そこに花禄さんがいまして、米團次さんが花禄さんに嬉しそうに話されて、又、それを講談の時に、会場にいた800人位の方に伝えられたら、皆さんが「まぁ~」と・・・
人間、変わりますね。
それまで「なんでこの襲名のラストに大雨なんだろう」と会場中シュンとしていたんですよ。
それが、米團次さんが「雨降って地固まって、種から芽が出る縁起が良い雨です」と言ったら、お客様がら拍手が沸き起こったのが印象的でした。
今日、親様がおっしゃったように、人間の考え方、受け取り方を変えるだけで人間の気というのが変わるわけですね。
それが、人間の心が曇っていると駄目なんです。。
受け取り方を変える。気持ちを変える。それだけで、皆さんから出てくる気も顔つきも変わると感じました。》
と言うような事を、最後に大徳寺さんが話されました。

神様は、いろんな場面場面で、そのつど示し申されています。
“神”とは、示す偏に申すと書きますから。
それも必ず、良い事に繫がっていく道を示めされています。
でも、私達はそれをマイナスに受け取る事が多いような気がします。
自分の望んでいるようにならないと、悪い事のように思ってしまう。

“大雨が降った”その状況は何も変わらないのに、受け取り方を考え方を180度変えれば、全く違った世界が広がって行きます。

いつも物事を良い方に受け取り、考える事の大切さを、学ばせて頂いています。

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June 08, 2009

「足利事件」の菅家さん釈放と「裁判員制度」

日本でまさに“裁判員制度”が開始されようとするこの時期に菅家さん釈放、様々な問題を投げかけているように感じます。

「疑わしきは罰せず」刑事裁判の原則だそうです。
ラテン語の直訳は「疑わしきは被告人の利益に」とも言うそうです。
裁判員に選ばれたら肝に銘じておきたい言葉ですね。
完全な人間なんていません。
人間は故意、故意でなしにかかわらず、過ちを犯す可能性のある存在です。
不完全な人間が、人を裁く。
しかも裁判官のように学校で司法の勉強をしたことのない一般の人が、ある日突然、裁判員になるのです。

「疑わしきは罰せず」
それでは罪を犯した者が得をするとか、被害者の立場はどうなるのか、と思う方がいるかもしれません。

老子の言葉に「天網(てんもう)恢恢(かいかい)疎(そ)にして漏らさず」
“天の張る網は、広大で一見目が粗いようであるが、悪人を網の目から漏らすことはない。即ち天道は厳正で、悪事を行えば早晩必ず捕らえられ、天罰をこうむる”とあります。

日本でも一頃まではお年寄りが「お天道様(オテントウサマ)が見ているよ」とよく言っていたものです。
“人の目は、見える所でしか判断しないけど、お天道さまは、陰日向(かげひなた)なくすべて見透かしている。だから、悪いことはしてはいけない。必ずした事の報いは返ってくる”と。

何も法治国家を止めて、全てを天に任せましょう、と言っているわけではありません。

ただ人智を尽くして検証しても、それでも疑がわしい時、後は天に任せよう。
そんな思いに至った時、検察、弁護団、被害者、マスコミ等の誰の側にも巻き込まれず、正しい判断に少しでも近づけるかもしれないと、思ったりします。

罪を犯した人を、裁くのは当然のことです。
でもその過程で、冤罪を生み出すような事があっては決してなりません。
人間は全ての事に白黒をつけられる程完全ではない。
そして人間が研究したものは、DNA鑑定も含めて、可なり正確なのでしょうが、完璧ではないはずです。

「裁判員制度」“疑わしきは罰せず”“人間は完全ではない” この2の事を、常に頭に置きながら謙虚な姿勢で臨める環境が創られることを願っています。

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June 05, 2009

北の核実験と祈り

「北朝鮮のことは本当に人間の奢り高ぶりですね。地下であのような核実験をしたり、まさに地を汚すという事は、天地の理を狂わすわけであります。
今日の大雨を見て、神様が地を汚されて清めているように思えてなりません。
人間の奢り、自分の権力を示そうとする事が、まさに様々な障害を作ってしまいます。
・・・人間の奢りというのは怖いものです。地下で核実験をして、それによって大地に歪が起こる。起こった歪は、天にも地にも現われます。
人間の奢り高ぶりで起こした事が自然界の流れを変え、水の流れを変え、奢りによって世の中の動きを皆変えてしまいます。
どうすればいいのでしょうか。
祈る事です。お詫びをする事です。
何万分の一でも皆さんがお詫びをして、それこそこのような爆弾の実験をした人々の代わりに詫びをする。
祈るという事は凄い力なのですよ。与える事であります」
天命庵の親さまが“北の核実験”について、こんなお話をされました。

遅々として進まない拉致の問題、独裁者に虐げられている人々、私達の国の上空を飛んでいった自称人工衛星、そして核実験。
いつも『世界の大国が自国の利害ばかり考えているから解決できないのではないか』と苦々しく思っていました。
勿論一番愚かなのは北のトップですけれど・・・

韓国が融和政策を実施しても、国連が事あるごとに制裁決議を出して実行しても、何も変わらないと言うか、おかしくなる一方です。

どうでしょう、こんな時は、祈ってみたら・・・
各人が、それぞれの場で、時間のある時に“北の人々の人間らしい暮らしを、真っ当な政治が行われる事を、核爆発によって汚された自然が清められる事を”心を込めて祈ってみては・・・
祈りには一銭のお金も掛からないのです。
数分間、心を込めるエネルギー以外は何もいらないのです。
人間って不思議なもので、“ただ”だと効き目が無いような気がします。
お高いと如何にも効果がありそうな気分になります。
そうゆう方は変な宗教団体に騙されやすいのですよ。
自然に神に祈るのに、お金は掛かりません。
真心をお供えすれば良いのです。
手詰まりな時は、祈れる人は祈りを奉げる。
大切な事だと信じています。

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May 05, 2009

イライラした心を静める方法

「今、世の中は慌ただしい。
忙しくて誠に騒がしく、物事がとても速いスピードで動いています。
こうゆう時は、イライラする方が増えますね。

どうやったらこのイライラした心を静める事ができるでしょうか?
呼吸を整える事です。
呼吸を整える事が、一番早く気持ちを整える方法です。
気がイライラした時、又とてもカッカした時、「鼻からスーツと静かに吸い込んで、口からなれべく長くゆっくりと静かに吐き出す」

呼吸を整える事。
人はイライラするから、また忙しくなるから、いらないことを人に言うようになるのです。
カッカしているから気が整わない。
息の気が行き渡っていないから、さまざまに悩み、さまざまに問題を起こすのです。

これを逆に、息を吸って“はっ”と出す。
浅く忙しく息をすると、イライラするわけです。
皆さんがイライラしている時の呼吸は、競馬場の馬がスタートの所に立って、ハッハッと息を荒く出しているようなもの。
そういう状態は喧嘩をしている状態と同じです。

常に呼吸を整えることに気を付ける事。
呼吸を整えると、体の気の巡りが良くなって、病気も消えていきます。
健康になりたい方は、常に呼吸を整える事です。

呼吸を整えて物事を成すこと。これがとても大切です。
呼吸を整えて物を成す人は、わりと失敗しても早く整える事が出来るわけです。
しかし気が落ち着かない方というのは、なかなか取り戻せない。

まず呼吸を整えること。そうするとさまざまな障害を変えていく事ができます」

天命庵の親様の教えのテープを整理していますが、どれを聞いても病気の話しが耳に入ってきます。
今、必要なお話だからでしょうね

動けなくてじっとしている時間が多いので、呼吸が浅いな~と自分でも感じています。
深呼吸!
深呼吸!

深呼吸をすると確かに気持ち良いですよ!

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April 26, 2009

病気になったら「丸い言葉」

「どうやって病気から抜ける事ができるかというと、与える事をすればよい。
例えば病気になったら、神様が“人に与えなさい”と教えてくれているのだと考えればいいのです。
神様の与えなさいは、お金や物ではありません。
心を与えなさいという事です。
“お人の為に何かさせて頂きたい”その心(気持ち)が与えるという事。

人は病気になると、自分の家族や身近な人を随分責める事が多くなります。
病気になるとついつい責める言葉が口から出てしまう。
責める言葉が多くなると、どんどん病状が悪くなっていきますよ。
優しいい言葉、丸い言葉。
丸い言葉が、実は“薬”なんです。
だから病気になったら、これは難しい、いろんな事を考えたり、不安になったりして、なかなか丸い言葉って言い辛いかもしれない。
でもその言い辛い言葉を出すようになると、段々心がほどけてくる。
優しくしなさい。優しい言葉をかけるんですよ。
自分が大変な時ほど優しい言葉、与える言葉をしっかりと掛けると自然に病気も良くなっていきます」

捻挫で動けないので、天命庵の親様のテープを整理しながら聴いていて“ドキッ”
今回は動けない以外は、体調も良く口も元気で、始終口が滑っておりますから。
「丸い言葉???」そんなお話し伺った事あったっけ~~~
“神様の教え”を学んでおります、なんて言っても、その程度なのですが・・・

「捻挫で思うように動けない」と知人に言うと、「介護で忙しかったから休みなさいと言う事よ」と判で押したように言われます。
私としては忙しい間にたまった家事をブルトウザーのような勢いで片付けたい心境なのです。
その辺の焦りが、まん丸のお月様のような言葉より、五個の角のあるキラキラ星の言葉となって、思わず出ているような・・・

「病気をした方が、それを機会にとっても優しい人になる。病気をした事も、素敵な事になるのですよ」

ちょっと休養して、丸い言葉を心の中で育てる良い機会のようです。

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April 01, 2009

アンラッキーなのか?ラッキーなのか?

フィットネス・ジムの入会手続きを終え帰り際、出口の階段で、ものの見事に転倒。

両親の介護で中断していたジムを再開しようと思い立ったのは、平地は凄い勢いで歩けるのですが、階段の下りが危なっかしくて、足腰の衰えを感じたからです。
鍛えるなら年齢的に最終段階、今しかないと思ったのですが、すでに遅かったのかも・・・

実はその日の午前中、ジムに入会する前にと、ご近所の鍼灸整骨院で外反母趾を診てもらいました。
入り口に外反母趾の治療の写真が貼ってあって、半年前から気になっていたのですが介護でバタバタしていて行きそびれていたのです。

診断は“年と運動不足の両方から筋肉が落ちて外反母趾になりかかっているので、少し運動した方が・・・”との事。
早速午後から、もっと運動した方がいい主人と二人で、再入会に行きました。

ジムの出入口はかなり急な階段が20数段。
面倒な手続きを終え、主人に「年とったらこの階段は危ないよね」と言いながら一段一段慎重に降りきった後、道路とのわずかな段差で転倒。
入会して数分後には運動はおろか主人に支えてもらって歩くのがやっとの、アンラッキーな状態に。

お医者さんは皆、お昼休みの時間帯、3時間前に始めて掛かった整骨院が帰り道の途中だったので、前から携帯を掛けて「転んだのですが・・・」と、言うと、先生が慌てて治療室を開けて診てくれました。
足に手早くシップをしてアイスノンで冷やしながら、骨折を調べ「ひどく転んだでしょう。下手に庇っていたら、骨折していたかも・・・」と。
運動神経ゼロなので、何とも無防備にそのまんま道路に“バタン”と倒れたのが幸いしたようで、これはラッキー。

「可なり酷い捻挫。内出血と腫れが始まっているからしっかり固定してしまいます」と、
薄い白い網の様な物がギブスのように捻挫した部分をぴたっとガード。
今時は便利な物があるのですね、と可なりの痛さも忘れて感心。
3時間前に始めて掛かった先生にお昼休みに飛び込んで診て貰えて、お見立ても、治療の腕も良さ気で、超ラッキーと感謝。

杖とサンダルをお借りして、帰宅した時は、当分普通の生活は無理かな?と思いました。 
でも夕方には、痛みも可なり治まり、家の中はほぼ普通に歩け、階段も何とか上がれるようになりました。
治療が早かったお陰です。本当にラッキー。

思いがけない怪我をしても“ラッキー”と思えるのは、幸せです。
そして、半年間も気になりつつ行かなかった整骨院に、どうして転ぶ日に行ったんのだろう、と思う時、そこに偶然以上の大きなものを感じるのです。
守られていると・・・

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March 15, 2009

不景気の訳と解決法

連日の不況報道、どこもかしこも「景気が悪い」「不況」「100年に一度の不景気」という言葉で溢れかえっています。
天命庵の親様が「どうしてこの様に景気が悪くなるかというと、皆が『景気が悪い、景気が悪い』と言うから、景気が悪くなるのです」と言われました。

聖書のヨハネによる福音書は「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は始に神と共ににあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった・・・」と、続きます。

皆が「景気が悪い」と思い、それを口に出し言う。
だから、皆の思っている通り、皆の言葉通り、世の中は「不景気」なのです。
何にも不思議ではありません。
当たり前のことです。
ではどうすれば良いのでしょう。

経営の神様といわれた故松下幸之助氏は「不況は天然現象ではない。我々が人為的に作ったものです。人為で作られたものは必ず人為で克服することができる」と言われたそうです。
そして「行き詰まっても行き詰まっていない、と考えなさい」「気持ちまで不況になるな」とも・・

日本は今までにもっともっとひどい時期を乗り越えてきまたはずです。
それらの時と今と何が違うのでしょう。
テレビやさまざまなメディアが、絶え間なく「不況だ。危機だ。倒産だ。人員整理だ。」と悲観論を振りまいています。
次々とそして繰り返し悪い情報ばかり流されると、人間って思考が止まってしまうのではないでしょうか。
うまくいかないのは不況のせいと全てを責任転嫁したとたん、自分で何とかしようという
気が萎えてしまいます。
「経済は人の心の関数」と言った方があります。
今、人の気持ちが完全に不況に飲み込まれています。

日本語は凄い言葉ですね。
「景気」という言葉の中にちゃんと「気」という言葉がはいっていますもの。
景気を良くするも、悪くするも気持次第。

『皆が「景気は良くなる、景気は良くなる。有難い、有難い」といえば、世の中は有難い世の中になります』と天命庵の親様は言われました。
(この景気が良くなる、とはバブルのような異常な好景気の事ではなく、まっとうな経済社会になる事です。念の為)
そんな簡単な事で!と思いますか?

でもそうなのです。
それが言霊の力であり、聖書に書かれている「・・・すべてのものは、これ(言葉)によってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった・・・」の意味でもあるのです。


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December 03, 2008

市の検診結果(2)ー発作性突発性頻脈もクリアー

小さい時から体が弱かった事もあって、神経質、心配性が服を着ているようなタイプでした。
それが、生き方、ものの考え方を学ぶようになって、程々を心掛けるようになりました。
食べるのも程々、心配するのも程々、悩むのも程々、喜ぶのも有頂天にならずに程々に。
それで、88歳と91歳の両親の介護を頼まれた時、深く考え過ぎること無く引き受ける事ができたような・・・

丁度去年の今頃、24時間の心臓のホルターを付けて“発作性突発性頻脈”との病名が付いて以来、初めて心電図をとりました。
発作時しか異常が出ないので、検査をしても正常といわれるのは予想していましたけれど、データーを見ながら「きれいな、心拍、心配ありませんね」と言われると、これまた複雑な心境で・・・

発作がでた時用の薬を処方して頂いてあるのですが、この頃全く飲んでいません。
発作の前触れのような症状はしばしば起こるのですが、頻脈にまでは至たらずに過ごせています。

心臓が落ち着いている原因は幾つかあると思うのですが、その一つに、これまた天命庵で伺ったお話です。
「今の人は忙しい忙しいと云って忙しいことが偉い事のようにせわしなく動き回ってる人が多い。自分の心臓の鼓動よりもせわしく動いていると、体に負担を掛けますよ」

『なるほど・・・思い当たる事がいっぱい』
私、猛烈なせっかちです。
駅まで500メートルの道のりを、10人抜きの勢いで飛んでおります。
漫画によく描かれている、足が車輪のように廻っているあの状態です。
整体の先生が「町で見かけたけど凄い勢いで声を掛けられなかった。何が急ぎの用があるのかと思って・・・」
「いいえ、普通に歩いておりました」
《一時が万事》と言いますが、ちんたらちんたら出来ない性格です。
心臓の鼓動よりせわしく動いているな~と反省。
以来、家を出て100m「CoCo壱番」のカレーの匂いか漂ってくると「オットット~」と速度をゆるめて「ゆっくり、ゆっくり」と呟きながら歩くようにしています。

お陰様で、血はさらさらと流れているようで、心臓もバクバクいわず、検診の結果は優等生でした。


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November 27, 2008

血液サラサラ20代の数値と言われました

高齢者介護で可なり草臥れているので、検診の結果を聞いた時は「ホンと~~~」とちょっぴり複雑な気分・・・
いえいえ、そんな勿体ない事を言ってはいけませんね。
有難い事です。
神のご加護と、感謝しなければ(ブログのタイトルと裏腹にこの頃全く“神さま”が登場してないので、この辺でちょっと頑張って・・・)

あえて言えば、血圧(上-98、下-58)が、低めですが、「低血圧は命に別状ないから・・・」と、女医さん。
朝起き抜けは(上-78、下-53)と超低血圧、昼間、上が100を少し越えると調子いいのですが、草臥れているとなかなか難しい。

降圧剤は幾らでもあるけど、低血圧を上げる薬はない、と言われています。
ところが、私、漢方の煎じ薬に「甘草」を混ぜると、いとも簡単に世間でいう正常値になります。
結果は、首の後ろが詰まったような、脳血栓とか脳溢血とかそんな病気でパタッと倒れそうな感じになります。
上が120~130で「危ないかも・・・」と言うと主人は「そんな、ばかな・・・」と本気にしません。
銀座の主治医は「タイムカプセルに入れて江戸時代に送り帰したい」と呟かれました。
新薬はダメ、漢方もダメとなったら、あの時代の民間療法位しか使えない体のようで・・・
江戸時代に戻る訳には行かないから、1時間かけて銀座まで通っているのですけどね。

血液サラサラの理由は、少食のせいかな~?
主人に言わせれば、「小鳥が菜っ葉をついばんでいる」ような食べ方だそうな・・・
少々甘い物に偏りがちながらも、あれこれ少しずつバランス良くついばんでおります。

もう一つ、こちらの方が大きいと思うのですが、天命庵の親様から伺ったお話。
『心の働きと、血液の働きは同じ。
流れ、生き方の流れを常に良い方に流していけば、血も良い流れになる。
思いの心が、血液の流れを止めてしまうと、血の流れが悪くなってどろどろになったり、ひどい時には止まってしまう事になる。
思いの心とは、拘り、思い過ごし、悩み、不安、心配等
俗にいうマイナス思考ですね。
心と体はお互いに作用しあっています。
マイナスの考えを一つ一つ取り除いて、良い生き方、良い思い方が出来るようになると、血液も良く流れるようになる』と・・・
          続きは後日!

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October 09, 2008

テンプレートを変えました

酷暑の中の介護を何とかやり過ごし、涼しくなってだいぶ経つのですがまったくやる気が起こりません。
テンプレートを変えたら気分が変わるかな~と、一発奮起して頑張ってみました。
NIFTYさんのテンプレート、洒落たものが沢山あるのですが、何故か殆どの物のカレンダーの部分が金曜日でちょちょ切れています。
些細な事といえばそれまでなのですが、性格上そういうことが気になる方でして・・・

前回変えたのが何時だったか覚えてない位前なのですが、当時より格段簡単になっていました。
あっという間に変更が終了して、ひょっとサブタイトルを見て苦笑い。
「日々の生活の中で感じる、宗教宗派を超えた神の教えについて」の“神の教え”の部分が濃い青のフェザーに被ってよく見えないのです。

雨だれのごとくポッポッと更新している内容は殆んど老人介護のあれこれ・・・
看板に偽りあり。
自分のブログですから、好きな事を書けば良いのですが、内容が看板から大幅にずれている事は確か。
一瞬、看板を“老人介護雑感”とかに塗り替えようか、それとも付け加えようかとも考えました。
でもやはり初心に戻って、時々は神の教えについても書いてみようと思い改め、このまましておくことに・・・

別にそれが“いい事、悪い事”という訳ではないのですが、現れてくることは今の状態を正確に表している。
そういう目で、日々身の周りで起こっていることを観ていると、生きていく上での意外なヒントが現れていたり、隠れていたり、気付いたり。
余り拘るのもなんですが、結構、笑える事も多く、人生が豊かになるような気がします。

ブログを開いて“青い羽”を見る度に、思わずニヤッとしています。

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September 01, 2008

アフガンで亡くなった伊藤和也さんの笑顔

天命庵のお庭で親様のお話を伺いながら、アフガンで亡くなった伊藤和也さんの子供のような純真な笑顔を思い出していました。

《何故、今の世の中はこんなにもおかしくなってしまったのでしょうか。
それは「自分さえ良ければ良き事」という心がはびこってしまったからです。
『自分だけ有名になればいい、自分だけ幸せになればいい、自分だけ豊かになればいい』という心。
分け与えていないのです。
自分が沢山の愛を頂いたら『それをお返しさせて頂きます』
沢山の力を頂いたら『自分も何か人の為にさせて下さい』という気持ちが無くなっているのです。
頂いたら返さなければいけない。
昔は木を切ったら新しい苗木を植えたものです。そうしたら森は、また森となります。
今の人の考え方は、木を切りました。立派な木を頂いて『ああ良かった、よかった』で終わってしまう。
未来のことを考えません。
木を切ったら次の木を植えていく。新しい森を造っていく。そういう考えが無くなりました。
皆さんも幸せな事を頂いたら「自分も何かさせて頂きたい」という気持ちが無くなっている。してもらうことばっかりを皆願っている。「させて下さい」「何か自分にもさせて下さい」という心が失せているのです》

彼のような人は、おかしくなってしまった今の世に、最も必要とされる、貴重な存在だったのに何故あんな悲惨な事に・・・

「ペシャワール会」のホームパージは、
『誰もが行きたがらない所に行き、誰もがやりたがらないことをする』の言葉で始まっていました。
《子供たちが将来、食料のことで困ることのない環境に少しでも近づけることができるよう力になりたい。アフガニスタンを本来あるべき緑豊かな国に戻すことをお手伝いしたい》が彼の動機でした。
他者への誠の愛、人に与える事の大切さ、未来を見据える目、を兼ね備えた方だったのですね。

そして何よりも凄いと思うことは、穏やかに楽しそうに喜んで現地の人々と働いている様子が、数々の写真から伝わってくることです。

彼はアフガニスタンの現状と「ペシャワール会」の活動の意味するところを私達に伝えて、この世を去って行ってしまいました。

私にも息子がいます。
もし、アフガンでお人の為に働きたいと言ったら、私は送り出す事ができるでしょうか・・・
伊藤さんは立派な方でした。
そして彼の崇高な志を理解したご両親も、ご立派だと思います。

彼の志が受け継がれてゆくことを願いつつ、そして、私も自分に出来る小さなことをコツコツと続けていきたいと思いつつ、僅かですが「ペシャワール会」に寄付を送ってきます。

心よりご冥福をお祈りいたします。

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August 21, 2008

宗教、信仰、神の教えに集まる人々とは―天命庵でのお話(2)

「両親の介護でなかなか天命庵にも伺えなくて・・・・」と何気なく言った一言に、
「えっ!他に行ってるんじゃないんですか?」
「はぁ~、他って何ですか?」と私、
「・・・神さまの話を聞きく所・・・香川さんも行ってるって・・・」

3年近く両親の介護でバタバタしている間に、あらぬ噂をたてられていたような。

ここでちょっと天命庵について。
宗教団体でも組織でもありません。 
大徳寺さんが自宅を月3回無料で開放して、神さまの教えの話しを伝えておられる庵です。
昔の辻説法を、個人のお宅で開かれている、そんな感じでしょうか。
公共の場に人が大勢集まるには許可が必要な時代ですから。
氏素性を聞かれることもなく、心ある方ならどなたでも訪れる事ができます。
クリスチャン、お坊さん、他の団体で学んでいる方等さまざまな方が、毎回、1年に1度、数年に1度、一生に1度と思い思いに訪れて学んでいかれます。

そんな自由な学びの場で“他に行っているのではないか?”と噂されるとは、摩訶不思議!
それだけだったら『私も噂をたてられるほどの有名人だったんだ~』(冗談ですけれど)
お気に入りの神さまの教え《人が何事言おうとも、神が見ている気を静め》
で、お仕舞いにするところです。

「でも時々だけど・・・ず~っと来ていたんだけど・・・・」と私
「うん、本を書くために来ているって・・・」
「はぁ???」

6年前、主人が『金儲け、素人がやっていいこと、わるいこと』という本を出版しました。
金融のプロの主人が一般の方向けに、如何に分かり易く書か、心を砕いているのを側で見ていて、私も普通の方が関心を持って下さるような、分かり易い神さまについての本を書いてみたくなりました。
神さまの教えと、宗教団体の教えは別物ですから。

ほんの親しい数名の方にだけ、本の事を話しました。
「本を書く為に来ている」と言っている方がいると聞いた時『私って人を見る目がないんだ~』と、瞬間落ち込みました。

大徳寺さんに「噂をたてられているのですけど・・・」と申し上げると
「堂々としていればいいのです。堂々としていればそんな話、直ぐどこかに消えてしまいます」
「不安に思っているから、いろんなものを呼ぶのですよ」

この《堂々と》《不安》と言う言葉に“はっ”と気付いた事がありました。
親の介護の事でトラブルがあり、どうしようか考えていました。
《堂々と》していれば良いのだ、《不安》に思わなければ良いのだ、と今回の噂を通して、今私に最も必要な事を教えてもらいました。
神様も手の込んだ事をなさる、等と思うのは考え過ぎでしょうか。

人生は一話完結ではなく、連続ドラマなのです。
全ては繫がってゆく。
一っの出来事に囚われる事は無い、改めてそう感じた出来事でした。


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August 18, 2008

宗教、信仰、神の教えに集まる人々とは―天命庵でのお話(1)

『無差別の恐ろしい事件が次々と起こる原因は、今世の中に(神の)教えが消えてしまっているから。
教えを聞いていると、人を殺せなくなります。
教えを聞いていると物を生かせるようになるのです。
教えを聞いていると自然を大切にできるのです。

そう云うと、どうして宗教戦争が起こるのですか?と疑問を持つ人がいます。
宗教は教えではないのです。
神様の名前を語って、人に言うことを聞かせ、神様の名を語って人を怖がらせ、怯えさせ、そして宗教団体の上の方の人達が私利私欲の為に怖がらせてお金を集めているのです。それは本当の教えではありません。

本当の教えというのは聞けば聞くほど、心が魂が向上したいと思うものです。
教えを聞いていると心が自由になるのです。
教えを聞いていると変な事を言われても気にならなくなる。教えを聞いていると何やかや云われても関係ない。そんな小さな事でぐちゅぐちゅしているのが勿体ない。
人は神様の方だけみればいいんだけれど、集まりに来ている周りの人の姿を見るのですね。
神様はよくおっしゃいます「人を見てはいけない。神だけを見なさい」

だってそうですよ、ここに来る方が聖人君子だったら、ここに教えを学びに来ないわけです。
皆、出来損ないだから来るのです。神様が呼んでくれているわけです。
心もできて、身もできて、性格も良かったら来ないわけです。性格が悪いから頑固だから来るわけです。呼び付けられるわけです。心を変えさせて頂くわけです。
“節から目が出る”と仰るでしょう。
いろんな問題-病気、夫婦、親子、仕事-で教えを学びなさい、とお呼びがくるわけです。それだけ皆可愛いわが子だから世の中にちらしておいたら何をするか分からないから呼んで下さるわけです。有難いではありませんか。育ててくださって有難いね。
そう思ったら、こんな良い所にどうしてあんな人がいるのかしら?あんな悪口を言う人がいるのかしら?
自分の中にもそういうものがあるのです。
ここは鏡屋敷です。出会う方はご縁のある方です。自分の映し鏡のように出会うのです。お互いに映しながら直していく。
もし教えの場で、いやなことを聞いたり耳にしたら、その方を通じて自分に教えて下さっている“有難うございます”と拝むと消えていきます。
本当ですよ。
神様のお側にいるから直ぐに消して下さる』

先月、湯河原の天命庵で伺ったお話です。
「良く言えば、それだけあなた方は個性的なのです。だから神様の教えを聞いて、周りの方に伝えていく、世の中を変えていく力になれるのです」と、いつもなら上げたり下げたり笑わせながら続いていきますが、可なり厳しいお話でした。

私にとって、本当に必要があって伺った内容でした。
実は、天命庵でちょっとした噂をたてられている事を知り、困惑しているところだったのです。


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August 06, 2008

行政はどこまで老人介護に立ち入るべきなのでしょうね

「わ~、涼しい。天国!やっぱりご家族と同居はいいですね」
往診に見えた女医さんと看護婦さんが、父の部屋に入るなり口々に歓声をあげられました。

独居老人。
老老介護のご夫婦
軽い認知症のご夫婦
息子さんはお勤めで昼間は独居状態のおばあちゃん
最後が我家の往診だったそうです。

クーラー無し、窓も閉め切ったまま
クーラーがあってもリモコンの使い方がわからない、これが圧倒的に多いとか。
父もそうですからよく分かります。
35℃近い猛暑の中クーラーとホットカーペット両方の電源が・・・毎回その家の往診は、ホットカーペットの電源を切ることから始まるとか。

「同居してない家は大変。今年の猛暑は特に・・・」と先生
思わず「ヘルパーさんは?」
「入ってない家がほとんど。本人か身内しか申請の手続が出来ないので・・・
民生委員が手続きの代行をできるようだけど・・・
それぞれに家庭の事情があるし
他人に家の中を見られたくないという方も多いし
介護保険、複雑すぎて説明してもわからないし
負担は1割と云ってもお金のかかることなので「結構です」という方も多いし
たとえ本人が了解しても、他人がお金のかかることの手続きをした、と後でトラブルになることもあるようだし」
し、し、だらけでビックリ!

ぎりぎりまで、誰にも何もできない、何故なんでしょうね。
「お父さまは、娘さんとご一緒で本当に幸せですよ」と何回も言われるのを
複雑な気持ちで聞いていました。

一昔前のような他人の家庭の中にどっぽり入り込むようなお付合いは、私もしたくありません
でも何かあった時にはお互いに助け合える様な、程良い近所付き合いを普段からしておくことって大切だと思うのです。

今、自分の出来る範囲で出来る事でお人の役に立つ。
そして出来なくなったら頑なに拒絶するのではなく、人に有難く助けてもらって感謝する。
お互いさま、持ちつ持たれつの精神が、これから必要になってくるのではないでしょうか。
昔の人はいい事を言っています。
「遠い親戚よりも近くの他人」
もう始まっている高齢化社会、行政の力にも限界があるでしょう。
自分達で出来る事は自分達で。

主人と自治会の活動をしていて難しいと感じつつも、日頃から一人一人が小さな努力をすれば、もう少し住みやすい安心して暮らせる社会になると思うのです。

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July 10, 2008

特養のショートステイ

父のショートステイ先を探し始めて4カ月、やっと今月から軌道に乗り始めました。

実はその間どうしようと悩んでいた5月頃、書類を届けにきたケアマネが会うなり「綺麗にお化粧しているけど疲れた顔してるね~」
しばし思案した後、思い切ったように何処かに携帯を掛け始めました。
それが、彼女にしては超丁寧語で話しています。

電話の後、以下関西弁です。
「誰と話してたん?」
「そこの、特別養護老人ホームの責任者」
我家から歩いて4~5分の所にあります。
「これだけ家庭で手厚く介護をしていたら、特養は無理や、と言ったのあんたやん。前のケアマネも同じ事言ってたけど・・・」
「そこのショートステイの責任者がとてもしっかりした人で、彼女の元なら預けても安心かと思って・・・」
等々話していたら折り返し電話があり「来週早々“2泊3日のお試し”の個室が取れました。日が迫っているので、明日ご本人とご家族の面談に伺います」

現れた責任者は、一分の隙も無いようなキリッとした中年女性。
スキだらけの私といたしましては、この上なく緊張しました。

父を預かるにあたって必要なことをテキパキと尋ねていかれ、その的を得た質問に、ケアマネが彼女なら安心といった意味が分かりました

転倒の危険性が高い事と「転倒は何処にいても起こりえるので、転倒した時はした時と思っております。家でも私が24時間付いて歩いているわけではありませんので」と伝えました
初めて顔を和ませて「なかなかそう言って下さる方はいらっしゃらないのですよ。すぐ苦情がくるので働いている者は落ち度がないようにピリピリしています」との事。
私なんか預かって頂けるだけで有難いと思うのですが、世の中の方は違うのですね。不思議!
べッドの足元にセンサーマットを敷いて、父がベッドから降りるとヘルパー・スーテションにすぐ連絡がいくようにしてもいいですか?と聞かれたので、
「結構です」と答えました。
試してみて、もし父が嫌がったら、その時はその時で考えればいい事。
私もやっとそんな風に柔軟に介護を考える事が出来るようになりました。

考えもしなかった思い掛けない方向に物事が進んでいきます。
深く考える暇も停める暇もないほどの勢いで・・・
こんな時、私は見えざる力が働いているような気がするのです。
たかだか父のショートステイのような小さな事に神様を引っ張り出さなくても、と思われるかもしれません。
ても“神の御業は細部にまでも行き渡る”そんな言葉を聞いたことがあります。

まあ、どちらにしても駄目で元々、そんな程度のことですけれど。
ショートステイの父の感想は・・・

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September 29, 2007

捨てる神あれば、拾う神あり

我家での受け入れ態勢の手順を考えながら家路を急いでいると、家の近くで休診日の母の主治医にばったり。
病院の担当医との話を聞いて「転院先を探しましょうか」と尋ねられました。
一瞬、その手もあったのかと・・・
でも、もう一度父の側で過ごさせようと決め、家での介護の段取りを考えていたので「一旦連れて帰るつもりです」と答えました。
「必要ならば毎日点滴に伺いますよ。訪問看護士さんとも相談して出来るところまでご自宅で。難しくなったら“あのお高い病院”にお願いすることにしましょうか」と言われたので、笑ってしまいました。
今、唯一快く母をショートステイに預かってくれる病院のことを、女医さんとの間で「あのお高い病院」と呼んでいます。
ただ2週間後にお盆休みを控えているので「休み明けまで入院させておいてもらえないか」お願いしてみたら、と言われました。

担当医の答えは「主治医とご家庭の都合でお母さんを“箱”(彼は何故か病室の事を箱、箱といいます)に後2週間も入れておくのですか???」でした。
断られる事を予期していたので「そうですね。受け入れ態勢が整い次第退院させます」と
あっさりと引き下がってきました。

ケアマネージャーと家政婦会に母の症状を伝え、介護と時間延長の相談をしました。
家政婦会は、病院の付き添い等をこなしているのですんなりOK。
20年来の友のケアマネージャーは「怖いね~」と言った後、暫し考えていました。
私も“怖い”と思っているのですから当然でしょうね。
何が起こっても不思議のない状態での退院なので「何なら責任は全て私がとります、と一筆入れましょうか?当分、特に食事の時間帯は私が家にいるようにするけれど・・・」と話したら、そこまでしなくてもと引き受けてくれました。

今回何が助かったかといって、母の心療内科の先生の夏休みが9月始めでお盆休みとずれていた事。
続々と“拾う神さま”がお出まし下さっている、そんな感じです。


その後も“捨てる神あれば、拾う神あり”と状況が目まぐるしく変化しております。

ケアマネージャーに「うちの介護、結構ドラマチックでしょう」と言ったら「激動です!」と返ってきました。
ウム、やっぱり・・・
激動の中に身を置いて、過労で少々のびております。
老人介護、老人医療について書きたいことが沢山あります。
ぼちぼち更新できればいいな~と思っております。

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September 06, 2007

世の中で出会うことに、偶然も無駄なことも無い

連休明けの1番忙しい時間帯に救急車で運ばれてきた母に、担当になった若い医師は明らかに不機嫌そうでした。
診察室で立ったままレントゲンを見て「誤嚥性肺炎と脱水で2週間程の入院です」と告げただけで、後何の説明もありませんでした。
これは言い訳ですが、救急車での緊急入院は、主治医の女医さんと受け入れてくれた病院の主任さんの判断で、私が決めたのではありません。

毎度お馴染みの「当院は老人病院ではありませんので、延命治療はいたしません。その旨了解しておいてください」の説明も当然然ありませんでした。

担当医からの初めての説明らしい説明はそれから1週間後、病室で母のべットを挟んで始まりました。
カルテを見ながら『こうなると何が良い悪い、どうしなければいけない、してはいけない、と言う事は何もありません。
誤嚥性肺炎は近日退院出来る位良くなっています。
でも何しろ食べられない。
看護婦が付きっ切りで食べさせても、病院食の1~2割の摂取がやっとです。
食べられないのをどうするか、ご家族でよく相談してください。
胃楼という方法もありますが、当人が食べないのに人工的に栄養を仕込むというは人道的にどうかとも思いますし・・・
このままにしておくのも・・・お母さんは意識がとてもはっきりしているので・・・
選択肢が増えてしまったので、反ってどうするか難しくなってきているのです。
今の状態だと退院しても緊急入院の繰り返しになります。
「しばらく療養病棟で看て頂くことはできませんでしょうか?」との私の問いに
「療養病棟で何をするんですか?」と問い返されました。
早晩この体では(体重20数キロ)点滴も出来なくなる時がきます。
点滴には限界がありますから・・』
そこで言葉を止めて、母の方をちらっとみて、声を落とし
『餓死ですな・・・まあどうするか、ご家族でよく相談してください。
立ち話ですみません』
と小さな声で呟いて病室を出ていきました。

母は異常に勘の鋭い人なので、自分を挿んで交わされた話の内容を感じとっていたはずです。
「お母さん、もうすぐ退院できるんですって。ヘルパーさんや訪問看護士さんの手配をするからもう少し待っていてね」と言うと母が嬉しそうに頷いたのでほっとしました。

“世の中で出会うことには、偶然も無駄なことも何も無い”
神様の教えの話をうかがいに行く天命庵でよく聞く言葉です。
丁度2日前、ご町内の同じ年配の女性から「祖母(彼女はご両親が亡くなった後に残され106歳の父方のお母さんの面倒を見ている奇特な方です)が、食事がほとんど取れないのに病院から退院してくれと言われた」との話を延々1時間半にわたって聞かされました。
彼女は医師と掛け上がって、毎日外来で点滴をしてもらうことを条件に退院をシブシブ認めたと激怒していました。

母の担当医の話を聞いてすぐ、同じ事が我が身にも起こっている事がわかりました。
厚生労働省が、2012年までに療養病棟の削減と廃止、高齢者の診療報酬(特に入院の)を儲からないようにした結果がすでにこうゆう形で現れているのです。
彼女の話を聞きながら、私ならどうするかなとぼんやり考えていた事が、即役に立ちそうでした。
そう、世の中で出会うことには、偶然も無駄も無い。
それをどう生かしてゆくかに掛かっている、そんな気がしています。

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August 28, 2007

延命治療・径管栄養(胃楼)・人間の生命力-2

寝たきりになった母にとって、食べることは唯一の楽しみです。
そして若い時から痩せていた母は、食べることに異常なまでの執着をもっています。
その母に食べる事を諦めさせる。
精神的バランスを崩してしまって母には、どんなに説明しても理解する事は出来ないでしょう。
自分の口から食べられる可能性がある限り、食べる喜びを残しておきたい。
父も姉達も母の胃楼に賛成しませんでした。

ご相談した母の主治医も、胃楼について暫らく考えた後「私も同じ位の歳の母がいますが、母にはしたくないですね~」
「香川さん、ご自分だったらどうですか?」と突然振られました。
私自身についてなら、答えは決まっています。
神様の教えを伺っている天命庵で「人は如何に生きていくべきか」を学んでいると、自然に人の生死について、日頃から何となく考えていますから。
できる限り自然に逝きたいですね。
それが私の寿命だと思うので・・・
自分の考え方が誰にでも当てはまるとは思っていないし、当然押し付ける気もありません。
だからこそ他の人については、難しいのです。
特に、母は永遠に生き続けるつもりでいる人ですから・・・

それから1年8カ月、流動食ですが何とか自分の口から食べていました。
胃楼をせずにここまでこれたのは、偶さかの幸運だったのかもしれません。
でもそれが母の持っている生命力なのだと思います。
母が「美味しい。美味しい」と流動食を食べているのを見て、胃楼にしなくて良かったと思っていました。
そして先月、救急車で緊急入院。


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August 05, 2007

最後をご自宅で看取る覚悟は・・・

「何時か伺おうと思いながら聞きそびれていたのですが、ご両親の最後をご自宅で看取る覚悟はおありですか?」
「覚悟がおありかどうか伺っておきたくて・・・」
「もう覚悟はできていらっしゃると思うけど・・・」
「どうしても在宅で、との覚悟がおありならばお手伝いします」
この1年8カ月、何度か主治医に尋ねられ、答えようと思うと何故か不思議に話が逸れてしまう、そんな繰り返しが続いていました。

自称天然ボケの女医先生、明るく気さくで優しくて、医師としての腕前はともかくとして、お人柄は申し分の無い方です。
在宅介護に力を入れておられ、最後の見取りもされているとの事。
ただ、この「覚悟」「覚悟」には正直当惑しておりました。

私を含めて全ての人は、後か先かの時間の差はあっても、いいずれ必ず最後の時を迎えます。
この世に生を受けた以上、死は誰にも平等に訪れるものであり、自然な事です。
常々生まれて出ることと、死に行くことは神の領域だと思っています。
なので、自分の最後についても、身内の最後についても、自分がどうこうしようとか、どうこうしたいという考えが殆どありません。
行き当たりばったりというのではないのですが、一番自然な形でその時を迎えられたらと思っています。

死とは、自分が生まれ出て来た“源”へ帰ること。
この世に生を受けた事が、めでたき事であるならば、生まれ出てきた“源”へ帰って行くことも又めでたき事。
日頃から、そんなふうに考えています。

明日母が退院してきます。
いつ再び緊急入院することになるかわからない状態での退院です。
今後の事を主治医と話し合った折「出来るところまで自宅で、難しくなったら病院にお世話になるつもりです。93歳の父のこともありますので」と伝えました。

母の意識がはっきりしている間に、もう一度二人で過ごしてもらいたい。そして静かに母を見送ってもらいたい、と思っています。
母にとって、父にとって、一番良き道へとつながつて行く事を信じて、祈りながら自然体でいきたいと思っています。


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July 12, 2007

ユニセフの募金と助け合う意味

ユニセフから住所と名前を書いたパーソナルラベルが届きました。
毎年僅かながら支援を続けています。
開発途上国では、栄養不良や感染症、不衛生な飲み水などが原因で1日に29,000人の子供たちが貧困の中でなすすべもなく命を落としているそうです。
1日に29,000人の命を救う為に、私が微かばかりの募金をしても・・・との思いもあります。
それでも募金をし続けているのは、かつて敗戦で荒廃していた日本がユニセフの援助によって支えられたことがあると聞いたことがあるからです

ユニセフは1946年に戦禍に苦しむ子供たちへの援助活動を開始しました。
その3年後の1949年から、日本は学校給食でのスキムミルク(大人になった今でも覚えているほど恐ろしく不味かったですけれど・・・)や毛布、衣料の原料、医薬品、医療資材、災害時の緊急援助等、15年の長きに渡り当時の金額で65億円もの援助を受けました。

現代のように情報が世界中を飛び交っていなかった時代、アメリカやヨーロッパに住む普通の人達は日本が地球上のどこに位置するかもよく分からなかったであろう時代に、遥か彼方からの心のこもった募金で、大勢の日本の子供達が救われたのです。
国レベルでの援助は国に任せるとして、私たち一般市民も自分たちのできる範囲でお返しをするのも大切な事かなと感じています。

天命庵の親様は人が助け合うことの大切さをよく話されます。
なぜ人は助け合わなければいけないのでしょう。
人はこの世に生まれ出る時、自分で勝手にお母さんのお腹から出てきた人はいません。
人の手を借りて、人に助けてもらって生まれてきます。
この世に生を受ける時から、人は皆、他の人に助けてもらっているわけです。
そのお返しに、自分の出来る事、無理なく出来る事で、人の為、世の中の為に何か良い事をするのは当たり前のことではないでしょうか。
皆が互いに助け合う事によって世の中は成り立っています。
その事を忘れずに生きてゆきたいと思っています。

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April 23, 2007

地位、名声、権力、富を得ると、人間は何故変わってしまうのでしょう?

選挙が終わって街に静寂が戻ってきました。
それにしても政治家の皆さん、いつもの事ながら選挙期間中はホントに低姿勢でしたね。
あの気持ちをずっと持ち続けることができれば国民の為に素晴らしい仕事ができるのに、そうはいかないのが人間のようで・・・
別にこれは政治家に限ったことではないのですけれど。

地位、名声、権力、富などを得ると、殆どの人は変わってしまいますね。
如何してなのかなといつも不思議に思っていたのですか、先日、天命庵の親様の話を聞いていて納得。
自分自身が偉くなったと思って奢ってしまうのですね。
まるで天下を取ったような、1番になったような気分になって。
人が奢る時はたいがい自分が1番だと思ってしまっているとか・・・。

でもホンマモノの信仰を持っている人はいつも自分が2番だと分かっています。
何故ならば、1番は神様だからです。
例え自分がどんなに偉くなっても、神さまが1番と常に己の存在を2番として受け入れることができます。
それは、必ずしも神の存在でなくてもよいのです。
両親、恩師、先輩、偉人、知人、どなたでも・・・
自分よりも偉大な存在を感じている人は謙虚です。

2番を保つということはとても難しい事です。
ちょっと調子がいいとすぐ1番になりたくなります。
2番はいつも己の心が中庸でなければ保てません。
世の中で人気でも地位でも1番になった人というのは奢り高ぶっている方がとても多いものです。
大切なことはどんなに偉くなっても、どんなに人から褒めて頂いても、常に自分を中庸の立場に保つこと。
どんなに成功しても自分は2番でありますという人の心の方が自由なのです。

お偉くなってはいけないのです。
偉くなると神様はこう仰るそうです。
「偉くなるとえらいことになるで~~」
えらいことに成らないように、常に2番の心で謙虚に生きたいものです。

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April 15, 2007

お誕生日だ♪ 還暦だ♪ 嬉しいな♪

若い頃はお誕生日を迎えても「年を取る」とは言いません。
いつ頃からでしょうか?
「年を取る」と言い出すのは・・・
お誕生日の度に重ねてきた年を、今度は1才づつ取ってゆく。
若返るのですね。
「年を取る」って素敵だと思いません?
私、お誕生日が大好きです。
周りの人から「おめでとう」と言ってもらって、ご馳走とケーキを食べて、プレゼントも貰って、良い事尽くめ。
年に一回なんて勿体ないみたい・・・

主人には単純だと言われますが、誕生日が大好きな理由がもう一つ。
若い時に何度か「中年以降運が開け年と共に幸せになる」みたいなことを言われたり読んだりしました。
それで年を重ねると、どんどん幸せに近づいていくような気がして、とても楽しみでした。
国語辞典で中年とは幾つからの事か調べたりして・・・。
昔の考え方では、還暦は中年というよりは初老に入るのでしょう。
でも今と昔では、平均寿命も年齢に対する感覚も違います。
私、只今気分は中年真っ只中です。

年と共に精神的に落ち着いてきて、今とっても幸せ♪
中年に、神様の教えに出会ったことが大きかったと思います。
還暦、人生に於ける充実した季節、そんな気がしています。

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April 04, 2007

93歳の伯母、母の姉が亡くなりました

3人姉妹の長女として家業を継ぎ、妹達の実家として私達姪も大変可愛がってもらいました。

母がショックを受けて寝られなくなるのではと案じたのですが、両親の代理で滋賀県まで出掛ける私に「宜しくお願いします」と一言、心を乱された様子もなかったのでほっと一安心。
むしろ父の方が、1歳年上の伯母が亡くなってショックを受けている様子でした。

人の死に出会うと『「良く頑張りましたね。ご苦労さまでした」と必ず生きていたことを労らって差し上げて下さい』との天命庵の親様の教えを思い浮かべます。
何故ならば、亡くなった時この世でたった一人の人からでも「ご苦労さま」と言って貰った方は、『自分の人生はこれでよかったのだ。この世での本分は全うできたのだ』と安心して天の国へ戻って行くことができると伺っているからです。
ここがとても大事なのですが、その方の人生の長さ、その方の亡くなり方、その方がこの世でどの位の仕事をなし遂げたかということとは無関係です。
この世に生を受け、生きたことに対する労いの言葉。
「ご苦労さま」は亡き人を天国に送るパスワードなのです。

もう2度と会えないのは寂しいけれど、私は人の生まれ変わりを信じているので、この世でご縁があった方にはまた何時か何処かで出会うのでは、そんな気がしています。
だからこそ今この世で出会っている人々に、優しく温かく接することができればいいな~と思いながら生きています。

おばちゃま、ゆっくり天国でお休みください。

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March 30, 2007

他力本願と母の介護

母がショートステイから帰宅しました。
10日間の予定だったのですが、途中発熱して22日間も預かって頂きました。
お蔭で、父も私も久し振りにゆっくりした日々を過ごしました。

退院の折、主治医が母の状態を説明した後で「お母様をご自宅で介護したいというお気持ちは充分わかります。でもご一緒のお父様か、あなたが倒れる前にお母様を施設に預ける事をお考えになられる時期だと思います」
若い女医さん、柔らかい微笑みを浮べながらもきっぱりと・・・

一昨年の暮れ、母を我家に引き取る時から、心療内科の先生に自宅で面倒をみる限界はとっくに過ぎています、と散々言われています。
この頃は時折「まだ頑張りますか?」と半ば諦めムードで聞かれる位で、余り話題になっていませんでした。
それをショートステイ先の医師から言われるとは予想だにしていなかったので、人間、不意を付かれると弱いですね。
周りの方は私を気遣って、1人で両親2人の介護をするのは大変だからと要介護5の母を施設に預けるようにと勧めてくれます。
でもね、私的には、両親がこの年まで(90歳と93歳)一緒に生きてこれたのだから、出来たら最後まで一緒に、と思っているのです。
一瞬『やっぱり無理なのかな~』との思いが胸を過ぎりました。
でも私、立直り早いのですよ。
なにせ14年間も神の教えの話を伺っているもので・・・

他力本願という言葉があります。
「人に頼って物事をしょうとする事」等と余りよい意味で使われないのですが、本来の“阿弥陀様の他力本願”という意味は違います。
甘えとか、人任せにするというような、いい加減な頼り方ではく「阿弥陀様に全てを預け信じること」だそうです。
絶対的な他力本願というのは、全てを信じて委ねること。
人生で現れる様々な事は全部素晴らしい事と受取り、流れに沿って生きてゆく事が、絶対的な他力本願だそうです。
自分がああしたい、こうしたい、こうあるべきだ、こうしなければならない、と余計なことを考えると無駄な力が入ります。
寝て待つのでもなく、優柔不断でボーと待つのでもなく、人に決めてもらうのでもなく、自分が今なすべきことを淡々とこなして、後は天に任せる。
聖書の言葉「人事を尽くして天命を待つ」に通ずるようです。
それで、私は他力本願でいく事にします。
マア、私の場合は絶対的な他力本願と言う程、大げさなものではなく成り行き任せ的なところもあるのですが・・・
どうしても自宅介護が無理になったら、その時はその時の流れに従うつもりです。
急いで決めなくても、物事は成るように成ってゆくのですから。

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February 01, 2007

「医者も薬も神が知恵をつけたもの」

介護を始めてから数ヶ月に1度、寝付く間際に数分間心臓が異常に早く打ち出し呼吸がし難くなる事があります。
医師から、心電図を取っても症状が起こっている時しかモニターに出ないので、もっと回数が多くなったら24時間モニターを付けてみますか???と言われています。
先生も私も内心、心因性で大丈夫と思っているので軽い感じの会話が交わされていました。

それが実家の片付け中日の明け方、いつも数分で治まる症状が止まりません。
口から心臓が飛び出してきそうな動悸を体全体で感じながら、夜の明けるのを待ちました。
今心電図を取ったら、異常があれば分かるかもしれないと少々残念に思いながら・・・

夜明けと共に起きて、まずいつもの朝の祈りを朝日を燦燦と浴びながらゆっくりと丁寧に。
祈りは大きな事から小さな事へ。
遠くの人から身近な人へ、そして自分の足元へと祈っていきます。
世界中の人が仲良く支えあって幸せに暮らせる世の中に早くなりますように。
戦闘の地にある人々の上に一日も早く平和が訪れるよう世界中の人が力を合わせられますように・・・ブログで出会った方々が恙無く一日を過ごされますように・・・それから主人、息子一家、両親へと。
そして最後に、実家の後片付が無事終わるように今日一日働かせてくださいと・・・
1時間ほど祈った後、気が付いたら普通に息をしておりました。

日頃、天命庵の親様から「医者も薬も神が知恵をつけたもの」と伺っています。
私は子供の頃から体が弱かったので、病状を楽にしてくれるお医者さまも薬も大好きです。
体調を崩すと直ぐに病院へ飛んで行きます。
転勤先の各国でも良いお医者様を見つけ出しては親戚付合い(ちょっとオーバーかな?)をする私を、若い時は病気知らずだった主人は呆れ返って見ておりました。

でもお医者様や薬と同時に、自分の体を直すのは自分自身だとも思っています。
体調を崩す時は、やはり精神的にバランスを崩している事が多いようなので。
「体の痛みは心の痛み、心の痛みは体の痛み」
静かに座して祈りを捧げる。
自分の拘りや囚われから心を開放することから始めると、随分体が楽になることがあります。

片付けも無事終わり、やっと時間が取れたので、明日検査に行ってきます。
心臓は大丈夫との自信がありますが、疲労が溜まっていそうなので念の為。

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January 11, 2007

初詣で感じた、日本人の宗教観

4神社を初詣巡りしました。
どこの神社もちょっとお洒落をした若者でいっぱい。

数年前の調査ですが「あなたは、宗教や信仰に関心がありますか。関心がありませんか」との問いに、「宗教に関心がある」と答えた人23%。特に女性の20代ではわずか6%でした。
信じる以前の関心もないはずの神仏に、硬貨数枚で家内安全、商売繁盛、交通安全、健康、受験祈願、縁結びまで、何でもかんでも、なが~いお願い。
さぞや神様も仏様も当惑されているだろうと思うのですが・・・
その時だけ変身して信じるのか、初詣で神仏の前で祈る事は若者にとって宗教的行為ではなく年の初めの行事みたいなものなのでしょうか。

これだけ数多くの神社仏閣に囲まれて(日本全国に宗教施設はおよそ23万ヶ所)子供が生まれればお宮参りに始まり、七五三、成人祝いだといっては神社にお寺にお参りに行き、結婚式は殆どの方は神式で、又はにわかクリスチャンになって教会で、そして人生の最後はお坊さんにお経をあげてもらってお寺の先祖代々のお墓に入る。
人生の節目節目で何らかの形で神社仏閣と関わりを持ちながら、神、仏、宗教、信仰について深く真剣に考える事無く一生を過ごしていく、しかもその時々に応じて宗教を使い分けながら・・・

その時々によってまるで宗教を変えるかのような日本人の宗教に対する姿勢は、キリスト教やイスラム教のような一神教を信仰する人々から見れば無節操にいい加減に見えることでしょうね。
でもいい加減は、好い加減でもあります。
近年の世界情勢を見ていて、リーダーの宗教、宗教観が紛争を巻き起こし平和の邪魔をしているなと感じる事が多々あります。
それに比べると、なんと大らかな宗教観を日本人は持っているのでしょう。
全ての神仏を敬い大切にする。
日本独特の宗教に対する大らかさは、世界が平和に共存していく為に必要なことなのかもしれません。

ただ神仏へのお参りは、何でもかんでもお願いをする為ではありません。
先ず、平素のお礼と感謝、世の中への祈り、それからこのような努力をしますので思いが叶うようにお願いします、と祈るのが順番かなと思います。

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January 07, 2007

亥年は観音さまの心で

『イノシシは直進してポーンとやってきます
慌てず騒がずのんびりと心を磨いて、神様の教えに沿った穏やかな生き方を来年は心がけてください』
そんなお話を天命庵で去年の暮れ、亥年に気を付ける事と一緒に伺ったのを思い出しました。

本当に元旦の夜、直球で“ポーン”と来ました。
お医者さんが皆、休んでいるお正月だったから慌てましたね。
でも主人が、即「救急車を」と判断したので後は流れのままでしたけれど・・・
今の状況で慌てず騒がずのんびりとは、余ほど心を磨かないと、とてもとても無理ですわ。

穏やかに生きられたらいいですね。
先ず笑顔からだそうです。
笑顔というのは祝福です。
「笑う角には福来る」と言いますね。
『いろんな事があっても直ぐに嫌いとか嫌とか思うのではなく、先ず微笑んでから考えみること。
恐い顔をしてあちこちガンを売っていると変な方が寄ってきますよ』なんてお話もあって大笑いをしました。
『相手を嫌わず心からお相手を理解しょう、許そうとする心が大切な一年』とも。
これは観音さまの心です。
観音さまは菩薩さまであり、慈悲の方です。
92と89歳を抱えて、どこまで慌てず騒がず微笑んで過ごせるか、今年の課題です。

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December 29, 2006

来年、亥年に気を付ける事

天命庵に今年一年つつがなく過ごさせて頂いたお礼参りに伺って、来年の心構えを伺ってきました。
毎年きまっておっしゃることですが「良い事をした人は幸せになるでしょう。悪いことをした人は幸せにはならないでしょう」
これは占う以前の生きてゆく基本ですね。
自分勝手なことをしておいて来年はいい年でありますようにと願っても、そうは問屋が卸しませんもの。

『亥年は十二支の最後の年です。
十二支の最初に戻る最後の年という事で、やり残したことがないだろうか、ああ、あれもしておかなければいけないわね、と焦る年でもあります。
「急いては事を仕損じる」
あまり前進し過ぎないで、いつもブレーキをかけて、なれべく走らないようにしてくださいよ。
調子の良い「す~」と行きやすい年ですから。
そういう時は用心してください。
どうぞ気を付けてください。
来年は特に気をつけるのですよ。
よーく自分に問うて、余り物事がよく動き過ぎたら止まることです。
甘い話に乗らぬように、流れをしっかり見て。
今まで積み上げてきた事でなってきたことは良いですけれども、急に思い掛けなく起きてきたことにはよ~く気をつけること。
欲の心のある人は騙されますよ。
気を付けましょう。
欲の心を取って、人さんの為に喜んで良いことをして下さい』

随分気を付けなければいけない年のようですが、はじめの言葉のように良い事をしていればいいわけで、何事も自分次第ということですね。

喜んで人さんの為にというのは、家族を含めた身近な方にちょっと気を使う事も含まれるのです。
とても簡単な事のような、この身近な人というのが意外と曲者のような・・・
ただ今、私、人さん(92と89歳の両親)の為にいくらでもする事があります。
私、来年は年女です。
赤いちゃんちゃんこなんて時代ではないので、洒落たダウンのベストでもリクエストしようかな?
どんな年になるのかとても楽しみです。

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November 24, 2006

“千の風になって”を聞いて

秋川雅史さんの“千の風になって” ミュージック・ショップで 広告のポスターを見て以来、どんな風に歌われるのか聞いてみたいと思っていました。
昨夜、NHKのTVで聞く事ができまた。
さすがテノール歌手。
見事な歌唱力、素晴らしい声量で雄大に朗々と歌い上げておられました。
秋川雅史さんのアルバム“威風堂々”の中に収録されているそうですが、“千の風になって”も“威風堂々”のように迫力がありました。

あの詩に、私は春のそよ風のような暖かく柔らかい、包み込むような優しさを感じていましたので、抱いていたイメージと微妙に違いました。
これはあくまで私の感じ方ですが…

“千の風になって”を始めて知った時の記事を再録します。

大切な方を亡くされた全ての人の心に届けたい、素敵な歌があります。

 『千の風になって』     作者不詳
   
 わしのお墓の前で 泣かないで下さい
 そこに私はいません 眠ってなんかいません

 千の風に 千の風になって
 あの大きな空を 吹きわたっています

 秋には光になって 畑にふりそそぎ
 冬はダイヤのように きらめく雪になる
 朝は鳥になって あなたを目覚めさせ
 夜は星となって あなたを見守る

 わしのお墓の前で 泣かないで下さい
 そこに私はいません 眠ってなんかいません
 
 千の風に 千の風になって
 あの大きな空を 吹きわたっています

 あの大きな空を 吹きわたっています

アイルランド共和軍(IRA)のテロで亡くなった24歳の青年が「僕が死んだときに開封して下さい」と、両親に託していた封筒に残されていた詩だそうです。
そして後にニューヨークの同時多発テロで亡くなった父親をしのんで11歳の少女が朗読したこともあり、この一編の短い詩が欧米や日本で静かに広がっているそうです。
 
“人間の死は全ての終わりではない。永遠の別れではない”と優しく語り掛けている詩は、日頃天命庵の親様から伺っている真理の話と同じです。
姿かたちは無くなっても、周りの誰かが亡くなった人の事を覚えていたら、いつまでもその人の心の中に生き続けているのです。
お釈迦様、キリストさま、マザーテレサや多くの賢者の説かれた神様の教えの話をよく聞きます。
そんな時、数千年数百年数十年の時を超えて、残された教え、考え方、思いが生き生きと私達の心の中で息づいているのを感ずる事が出来ます。
まるで今もなお生き続けているかのように・・・
 人は亡くなっても、その人の記憶を抱き続けている人がこの世にいる限り、その人は生きているのです。
 そしてその人の美しいしい行為、優しい言葉、暖かい笑顔は、千の風となって、われわれに希望を与え続けるのです。

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November 19, 2006

前世についてーつづき

私は江原さんの事よく知らないのですが、若い人達の反応を見ていて、「前世、前世」と見えない事が分かる不思議さに目を向け過ぎている様な気がしています。
今現在と、迫り来る未来に、真剣に向かい合う事の大切さをしっかり伝えているのかな?と不安を覚えるのです。

過去から学ぶことは、とても大切な事です。
でももし、人間に本当に過去を生かすだけの知恵と能力があったら、この世から争いも戦争もとっくに無くなっているはずです。
過去から学ぶ、生かすのは、とても難しい事です。
必要以上に過去(前世を含めて)に囚われず、今を心を込めて生きる。
それが一番大切な事だと思います。

宗教家で医学博士のこんな話を聞いたことがあります。
「人は皆、八千八度(数限り無く何回もの意味)の生と死を繰り返している。その中では聖人の様に素晴らしい人間であったことも、非常に悪人だったこともある。人はいろんな人生を経験しながら魂を磨いている。今現世で、権力を手に入れた、富を得た、地位がある、頭がよい、美人だからと言って偉そうにするな。大きな顔をするな。長い長い生と死の繰り返しの中から見れば、其れはほんの一時の事、自慢するに値することではない。」

真実かどうか確かめようもないのですが、私、この考え方が大好きなのです。
どんな時でも、自分を自慢する事も卑下することもなく、また人のことを羨むこともあれこれ言う必要も無い。
今の自分の人生を一生懸命生きていればそれだけでいい。
来世への素敵な人生に繫がるかも知れないし、又魂を磨くための試練が待ち受けているかもしれない。
それは皆が通る道であり、そして通ってきた道なのですから。

“八千八度の前世”のほんの一部を教えてもらっても大して役には立たないような気がするのですが・・・

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November 16, 2006

「前世、悪人だったのではないかと思うんです。

暗闇の中追われて逃げる夢、よ~く見るんです」と、母の流動食を作りながら若いヘルパーさんが楽しそうに言います。
「アラ、アラ、アラ」と思いながら「知って、如何するの~」とさり気なく。
答えは「知りたいんですもの~~~」
「今生でそんなに可愛くて生まれて(美人ではないけど容姿も性格もとってもかわいい子です)お年寄りのために心を込めて働けてるのだから、前世なんか気にしなくてもいいと思うんだけどな~~~」と私。
「でも、知りたいんです~~」と彼女。

それにしても、前世を知ってどうする積もりなのでしょう。
私は物事知って為になる事と、知らない方が良い事があると考えています。
前世のように確かめようの無い事は、遇えて知る必要がないのではないかと…
あなたの前世は良くなかったと言われて、今生こそは立派に生きようと頑張れる人もいるかもしれません。
でも人間は、強くも弱くもあります。
何かの誘惑に出会った時、どうせ前世悪かったのだから「どうしょうもないのよ」と誘惑に嵌る原因になりかねません。
全てを前世のせいにして…

人は、今の生きている姿が一番大切なのです。
何故ならば、今を見れば全部わかります。
今の生き方が、過去、現在、未来を全部写し出す鏡なのですから。
今、この時を如何に生きるか、その事によって未来の自分が決まります。
これは誰でも知っていることですね。
そしてもう一つ、今、この時を如何に生きるか、其れによって過去に自分のしてきた事の意味が変わります。
今生き生きと輝いて生きていれば、前世も過去も、今を輝かせる為のものだった事になるのですから。
前世、前世と囚われなくても、今をしっかり生きる事で全て変えられるのです。
言い換えれば、自分の前世は今をしっかり見詰めて生きる事以外に変える方法はないのです。

江原さんが“人には前世がある”と若い人達に気付く切っ掛けを作ったことは素晴らしいと思います。
でもね・・・                    
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November 01, 2006

人生に問題なし

天命庵に、息子さんが入院した友とお参りに行ってきました。
「神様にお参りに行けば病気が治る」等と安易に考えて行った訳ではありません。
数日前何となく気になって掛けた電話に、暗い声で出てきた彼女は「又息子が入院したの。でも前の時よりも症状は軽いのよ」との事。
それを聞いた時に即「それはよかったね。お礼参りに行こう」と誘ったのです。
病気になったのに“お礼参り”なんて普通の人が聞いたら不思議に思われるかもしれません。
でもね、病気で入院しているとはいえ、しっかり生きているのですよ。
有難い事ではないですか。
生きてさえいれば、これから先どんな良い事が起こるかもしれませんもの。

案の定、午後の親様のお話は「問題なし」から始まりました。
「人が様々な問題に遭遇した時、この問題はどうなるのだろうか、これからどうなっていくのだろうか、折角ここまで築き上げてきたのに何でこうなったのだろうか、等とクヨクヨしないで、先の事は何にも問題ないという心になって通る事がとても大切です。
神様に全てを委ねる、信じる心を大切にした時に大きな道が現れてきます」とのお話。

「人が天の国からこの世に生まれ出る時、神様から困らないようにと、命の衣に宝石を一つ縫い付けてもらって生まれています。
宝石とは神聖、仏教で言えば仏性、良い心のことです。
その宝石を取り出す方法は、神の教えを知る事です。
神の教えに出会い良い考え方が出来るようになると、宝石は現れて、問題は問題で無くなります。
皆、素晴らしい宝物を頂いて生まれてきているのですよ。
困った時、大変な時に助けになるものは、昔から、生まれた時から皆与えられているのです。
天命庵に来たことのない人でも、誰でも皆、宝石を持って生まれてきているのです」
 
お話を伺っていて楽しくなってきました。
皆の心の中に美しい宝石があるのです。
きっと世界で一番美しいダイヤモンドよりもっと輝く宝石が・・・
それを神様の教えで磨いて良い心遣いが出来るようになればキラキラと光り輝いて、全ての物事を光に変える力を皆備えてこの世に生まれてきているのです。

神様の教え出会うには、釈迦様、キリスト様、マザーテレサさんやガンジーさんのような偉大な方々の考え方、生き方の中に、世界の文学の中に、童謡の中に何処からでも気付く事ができます。
いつもこのブログに書いていることですが神の教えに触れるのに、特別な方法は必要ありません。
宗教組織や団体に入らなければ、得られないものではないのです。
自分の心の宝石を磨きたいと望めば、日々の生活のあちこちに気づく為の種はまかれているます。
心の中の宝石、輝かせなくては勿体ないですね。

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October 26, 2006

いじめと家庭 (1)

今回の事件、元担任の先生の言動が常軌を逸していたのは言うまでもありません。
でもちょっと、ご自分の回りの老人、大人、若者、子供を、よ~く観察してみてください。
家庭、ご近所、学校、職場、政界で、イジメや仲間外れはないでしょうか?
いじめ、嫌がらせ、無視、仲間はずれ、虐待がそこいらで起きているのではないかと感じています。
残念ですが、それが今の日本の社会の現状のような気がするのです。

子供の世界は大人の社会の鏡です。
子供は大人のまねをしているだけです。
そう、今回の事件の元担任の真似をしたように。
自分達の行動を棚に上げにして子供たちにいじめを止めさせよう、学校からいじめを無くそうと文部科学省を筆頭に必死になっても、教育委員会の権限を大きくしても、抜本的解決にはならないと思います。
勿論今まさにいじめに会っている子を救う手立てを講じる事は、一番にしなければならないことです。
と同時に大人が自分自身の行動を振り返って、いじめの元を作っていないか反省し、大人が変わらなければ、モグラ叩きが永遠に続くような気きがしています。

何処から変えればよいのでしょう。
頭の中で収拾がつかない位ぐらい問題は一杯あります。
でも根っこは1つかもしれません。
社会の一番小さな集団、基礎は家庭です。
今その家庭が崩壊しているようです。
家庭が崩壊していては、世の中の一番弱い者、家庭の元で庇護されなければならない子供が守られるはずがないのです。

 大人が、夫婦がいがみ合っている中で育てる。
 子供に過度の期待をかける―お験といって幼少から受験という戦争で子供を戦わせるような。
 社会で生活する上でのルール、礼儀作法を教えない―弱いものをいじめない、命を大切にする等は人間として生きていく基本です。
理屈ではないのです。

これを天台宗の僧侶の瀬戸内寂聴さんが「人を殺すのは悪い、盗むのは悪い、嘘をつくのは悪い。人間として絶対にしてはいけないことなのです。人間である証拠のバッチのようなきまりなのです。人間には初めから“してはいけない”ということがあるのです。理屈など何もいりません。“してはいけないのよ”ではなく“するな”と子供が小さいうちから、小学校に上がる前から頭にたたき込むのは、親の責任です。

 何よりも子供の心を育てていない―知識を詰め込んで、いかに生きて行くかの知恵を教えていない。
これらは一種のいじめだと思うのです。

穏やかな暖かい家庭で育った子は積極的にいじめには加担しないでしょう。
愛情に満たされて育った子はいじめをしないと思うのです。

いじめ、多種多様な要因があるでしょうが今の家庭教育の在り方、大きな要因ではないでしょうか。

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October 18, 2006

「孫」を代理出産

今の世の中が凝縮されたような出来事です。
起こるべくして起きた、そしてこれからもっとエスカレートしていくのでしょうね。

 私には息子が一人います。「子供のいる人には子供のいない人達の切実な気持ちが分からないでしょう」と言われたら少々怯まざるおえません。
 しかしこれは子供が云々というだけの問題ではなくて、人生全てに通ずることだと思います。
人間は何もかも自分の望む物を手に入れることはできません-健康、体力、優れた運動能力、美貌、端麗な容姿、明晰な頭脳、やりがいのある仕事、地位、名誉、財産、素敵な伴侶、愛情深い親、仲の良い兄弟等々(順不同)
 人、それぞれ持っているものは皆違います。自分にないものを得る為に努力することは大切なことです。
でも度を過ぎた努力は自分の今持っている良いものまでも、失うことに成り兼ねないのではないでしょうか?
 神はその時々に応じてその人の人生に必要なもの、相応しいものを全て与えてくれると聞いています。
後はその人がそれをどのように受けとめ、生かしていくかに掛かっています。
 今現在置かれている自分の立場、役割を喜んで生かすことが、一番素敵な人生を歩む近道ではないでしょうか?
 今子供ができないのは、ひょっとしたら前世で一ダース位の子供達の肝っ玉父さん、肝っ玉母さんをしっかりやり終えて、子育てに関しては修了証書を持っているので、今世は子育て以外の部分の自分を磨く為に生まれて来たからかもしれません。
キャリア・ウーマンとして社会でバリバリ働く為に生まれて来たからかもしれません。
夫婦二人だけで素敵な愛を育む為に生まれてきたからかもしれません。
或は子育ての勉強は来世に予定されているのかもしれません。
 それは“神のみぞ知る”ですが………。

今の自分の人生をそんな風に何でも良い方に考えたら、本当に美しく輝いてくるのではないでしょうか?
 無いものを探し求めるのではなく、今与えられているものに感謝して、大切に生きていけば、自ずと素敵な未来が開けていくと思います。
 《足るを知る》-分相応に満足することを知る。
昔の人は真理を簡単な言葉に表わして残してくれています。
自分の周りの人達をよ~く観察してみて下さい。
子供がいることによって幸せな人もいれば、子供によって苦労している人もいます。
子供がいなくても幸せな人もいれば、子供がいなくて不幸な人もいます。
どちらが幸不幸ではなく、何事も自分の生き方、考え方次第なのです。
当節、お金さえあれば何でも手に入る、何でもすることができると思い違いをしている人が、多い世の中になりました。
でも将来どんなに生命科学、生物学、医学が進歩しても“命”を無の状態から作り出すことは絶対にありえなと思います。
目に見えない形のない“生命”を創造できるのは目に見えない形のない神だけです。
子供が生まれるか否か、それが男の子か女の子か、これは神の領域です。
限りない欲望を手当たり次第可能にしていったら、自然界の摂理は崩れ、社会は崩壊する。そんな危惧さえ抱いています。

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October 02, 2006

かけがえのないもの- 高嶋ちさ子

とんねるずの番組にゲスト出演していた高嶋ちさ子さんの話を聞きながら、主人が大笑いをしていました。
てっきりお笑い系の人かと思っていたら、な、なんとバイオリニスだそうです。
未だ一度もバイオリンを奏でている姿にはお目にかかったことがないのですが、時折テレビのトーク番組で、新聞のエッセイでお人柄に触れることがあります。
早口に喋りまくる声はハスキな低音で底抜けに明るい、話がともかく面白くて笑える、そしてお若いのに妙な迫力があり、この存在感は何処から・・・と興味がありました。

朝日新聞の「な・ま・ね・た」という記事(9月28日)に成る程と納得のいくことが載っていました。
テーマは「かけがえのないもの」―姉がいるから私がいる
高嶋さんには、20歳まで生きられないといわれたダウン症のお姉さんがいます。
お母様はそのお姉さんを守ってくれる子供を生まなくてはと、彼女のお兄さんと彼女を産む決心をしたそうです。
高嶋さん曰く《つまり、兄も私も“使命”をもって生まれてきた子供だったのです》
子供の使命を決めてしまう母親と、それの使命を素直に受け入れた子供。
お母様が偉いのか、高島さんが凄いのか、両方とも天性の素晴らしい物を持っておられるのでしょうね。

以前ブログに書きましたが、人は皆、天の国から“使命”を携えて地上に生まれてきた“天使”なのです。
でもその使命が何なのかわからなくて、何故生まれてきたのか、何故生きているか、その意味が見つけられなくて、何と多くの若者が閉じこもったり自分の使命探しをしている事でしょうか。
ただ生まれてきた時、自分の使命が何である分かっている事が幸せなのかどうかは、私にもよく分かりませんけれど・・・
《「(姉の出来ない分の遊びも学びも)2人分生きなさい」と母に毎日のように言われてきたのを、プレッシャーに感じるどころか、たぶん私には2人分できる能力があるんだろうと、完全に勘違いしていました》
子供が潰れないようにプレッシャーをかけ、そしてそのプレッシャーをよい勘違いに変えてしまう親子、迫力育ちますよね。

でも高嶋さんにとって一番大変だったことは、世間の無理解だったそうです。
宗教家で医学博士の方が書いた、ダウン症に関する記事を読んだことがあります。
ダウン症を持った新生児はどこの国でも約1,000人に1人の割合で生まれるそうです。
それは確率の問題ですから、もしかしたら私だったかも、あなただったかも、自分の家族の誰かだったかもしれない。
そのように考えた時、お互いに助け合って生きていこう、支えあっていこうという気持ちが自然に心から生まれてくるはずではないかと。

今40歳を過ぎたお姉さんは元気に生き生きと働いていて《支えるはずの高嶋さんが可なり支えられているのです》と最後を結んでおられます。

一度彼女のバイオリンの音色、聴いてみたいと思っています。


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September 11, 2006

“前世”のような不思議な事にばかり関心がいって・・・

身近なところへの関心がとても薄れているような気がします。
先日(9月8日)天命庵で伺ったお話です。

『今の人は、わしが天の鏡で眺めていると、凄く不思議なことが好きな人が増えています。
自分の前世は何んだろうか?とか、そういう不思議な事ばっかりに関心があって、身近なところへの関心がとても薄れているような気がします。
身近なところにもっともっと目をやって下さい。
例えば夫婦がお互いに感謝し合う。
身近な事に感謝できるようになる、それが大きな心に行き着く事です。
何気ない小さい事に感謝できた時に、人は大きな心を得ることができます。
今一番関心を持たなければいけない事に、思いがいっていない。

一番身近なものは命ではないですか?
命というものに対して感謝が足りなくなっています。
だからさまざまな事件が起きるのです。
人を殺めてみたり、自分が亡くなってみたり、命に対する尊さが、凄く忘れられています。
皆さんの中に命があるから、今日ここに来る事ができたわけでしょう。
命の大切さという事を、今の人は本当に忘れていますね。
これから一番尊ばなくてはならないのは、自分の命にもっと合掌すること、拝む事、感謝をすること。
そういう事がとても必要ですね』

今よく話題になる、前世や(守護霊)についてこんなお話がありました。
もしもこの世を生きていく上で、自分の前世が誰であったか、守護霊が誰であるかを知っている必要であるのならば、当然私達は教えられて生まれてくるはずだと、常々私は思っています。
私達が何も教えられずに、まっさらな状態で白紙でこの世に生まれて来たということは、前世とか守護霊とかを知る必要がないからではないでしょうか?
私達がこの世で生きていく上で、かえって邪魔になるのではないかとすら感じていました。
何故なら、自分の頭で考え、自分の体で行動し、自分の足で歩んでこそ、初めて自分の人生を生きたと言えるのだと思うからです。
自分の前世がこの人だからこのような人生を、守護霊がこう言っているからこのように生きよう、では自分のオリジナルの人生では無くなってしまいます。
過去に気を取られていると、今現在の自分を大切に一生懸命生きる事が疎かになってしまいそうです。
自分で自分の人生を努力して積み上げてこそ、自分の命の有難さもわかる、お話を聞いていてそんな気がしました。

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August 31, 2006

童謡の中にも神の教えが・・・

『結んで開いて、手を打って結んで、また開いて手を打って、その手を上に~』
子供の頃よく唄った歌です。
今の子供達も唄っているのかな?
母と唄う童謡を探していて、ひょっとしたらと思って唄ってみたら、仰向けに寝たまま寝返りをうたない母が振りを付けて唄いました。
以来何気なく母のリハビリに気分転換にいいかなぁ~、と思って唄っていました。

そうしたら天命庵の親様のお話に「日本の子供の美しい童謡には愛が溢れています。この愛によって全てが助かるのです」とありました。
『結んで開いて』の結ぶは、命を結ぶという事。
何故かというと「祈り」とは結びなのです。
神に祈る。
神と自分を結ぶ。
神に、家族や身近な方の為に祈りを捧げるという事は、その方達を神様に結ぶ事。
結ぶ事によって、開くのです。
開くとは、助かる事。
開くという事は、そこから物事が良い方へ始まっていくのです。
全ての事は、結んで、開いて、そして始まります。
それから『その手を上に』と神様に万歳と両手を上げて祝福です。

母は軽い認知症です。
歌いだすと何度も何度も繰り返しています。
いい唄を気に入ってくれて良かった。

今はおにぎりという事の方が多いですが、おむすび(御結び)も命を結ぶのです。
童謡も、日本語も凄いですね。
昔話も凄いらしい。
何からでも神の教えを感じる事が出来るようになっていて、パズルを解くように楽しんでいます。

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August 05, 2006

嫁と姑、この言葉、嫌いです。

私は古い女ではないし、息子の伴侶は我家の女ではありません。
それにしても“嫁”に代わる適当な言葉がなくて困っています。
息子の伴侶、息子のパートナーではちょっと長くてしっくりしません。
主人も私も、普段はあやちゃんと名前で呼んでいます。
でも人に言う時、もごもごと口ごもってしまいます。

人としての生き方を学びに時々伺っている天命庵で「お嫁さんは他家で育てて頂いた自分の娘が、我家に帰ってきたと思って大事にしなさい」とよく言われます。
それもわかるのですが、あやちゃんには産み育ててくれた実のお母さんがいるのですから、娘というのには少々遠慮があります。
ただ我家は一人息子で女の子がいないので、娘が増えたような気分なのは確かですが・・・

呼び方はともかくとして、立派に成人した大人が家庭を持ったのですから、2人で自分達の家風を作っていけば良いと思っています。

この間若い芸能人が自分の奥さんの事を「うちのヨメが・・・」と言うのを耳にしました。
彼の“ヨメ”のニュアンスは、家の女の“嫁”ではなく、自分達の家の女的響きがあって、その微妙な違和感になにか微笑ましい感じがしました。
新しい感覚の“ヨメ”と言う言葉が使われだすのかもしれませんね。

きっとその内、孫中心になって “すみれのママ”とか“すみれのおかあさん”と呼ぶようになって、呼び方は一件落着なのかな?

嫁と姑の不毛な争いだけは、したくない。
主人の義母と義姉達の、確執を見ていて思いました。
争いの連鎖は何処かでというか自分達の代で断ち切る為に、良い関係を築きたいと思っていました。
そうしたらあやちゃんも、まめに孫の様子を知らせてくれたり、両親の介護で忙しい私をとても気遣ってくれます。
人間関係はお互い様なのですね。

一人一人が周りの人と仲良く暮らす努力をすれば、世界中が仲良しになれる。
そんな時代を皆で作れたらいいですね。

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July 07, 2006

“とろい”のも有難い

「追い返されないように、お父様の手術日ぎりぎりにお母様を入院させた方がよいかも・・・」と、いつも往診に見えている女医さんに言われてビックリ!
「え~、本当ですか?」
「ないとは思いますけどね・・・」
そう言われてみれば、母の《地球は自分を中心に回っている的な、さまざまな訴え》病院は手を焼かれるだろうな…
でも自称“天然ボケ”の女医先生、いつもふんわり優しく母に接して下さっていますが、母の態度は入院先では通用しないかも、と思っていらしたのですね。
うっかり気が付かずに失礼をしていたようです。

心療内科の先生にも母の入院を報告したら、本当にほっとした様子で「それはよかったですね。ご家庭で介護される限界はとっくの昔に過ぎていたので・・・」と。
《そんな事言われていたかな~》と思いながら考えてみたら、数ヶ月前「これ以上薬は増やせないのですよ」と言われた時「じゃあ、どうすればいいのですか?」と聞くべきだったのでしょうね。

私、自慢じゃないのですが、そうとう“とろい”と言うか“天然ボケ”と言うか。
今まで自覚がなかったわけではないのですが、今回両親の介護をしていてつくづく感じます。
でも“とろい”ままでいられるのも有難い事だと思っていますけれど。
本当に良い方たちに恵まれ、女医先生、看護士さん、ケアマネージャーさん、ヘルパーさん、最強の軍団に守られているお陰です。
そして一番大きいのは、自分がするべきことをしていれば、後は神様が“いいあんばい”にして下さると信ているからです。

さてさてどうなります事やら、母の入院、結構スリル満点です。

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June 03, 2006

疲れる=憑かる?

社会人になると、上司から「ご苦労様と」ねぎらわれたら、部下は「お疲れさまです」と答えるように習うそうです。
それがマニュアル用語化されて、何でもかんでも挨拶は「お疲れさま」で済ませてしまう傾向にあるようで・・・
朝ならば「おはようございます」が適当なのに「お疲れさまでございます」
電話でもいきなり「お疲れさまです」から会話がはじまるとか。
朝から皆がお疲れ、お疲れの会社って、いい仕事ができるのかなと思ったりします。
一仕事終えた後とか一日の終わりの「お疲れさま」はお互いを労わり合う感じでわかるのですが。

 疲れたと言うと“疲れた”という言葉を心が聞いて、どっと疲れた気分になってしまいます。
ですからお相撲さんの世界では稽古の後「疲れた」という言葉を使わないで、その代わりに「力が入りました」と言うそうです。
それ位、昔の人は言葉の持つ力を考えていたのですね。
言葉、言霊を大切にしていたのです。

そしてもう一つ『今の人はすぐに「つかれた、つかれた」といいますけれど、一体何に“憑かれた”のでしょうね』と天命庵の親様が言われた事があります。
フム、日本語は凄いですね。
“疲れた”と“憑かれた”
どっと“疲れたさん”に取り付かれないように、気を付けたい言葉です。

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May 20, 2006

大きな大きな虹が夕方のにわか雨の後、青空に掛かりました。
夏になると毎日庭の木々に水を撒きます。
強い日差しを背に受けてホースの先に、まるで魔法使いのおばあさんように幾つもの虹を描いて楽しみます。

でもやっぱり空に出た自然の虹はいい。
雄大で思わず見とれてしまいました。
何故か“希望”という言葉が心に浮かびました。
お空からの贈り物、そんな言葉がぴったりの美しい虹でした。

私の好きな歌に、尊敬する大徳寺昭輝さんの“虹”があります。
とっても素敵な歌なので、著作権を失礼して、書かせてもらいます。

  虹(湯川れい子作詞)
 小さな私を抱きしめて そっと教えてくれたひよ
 お空もあなたと同じに、今は涙をこぼすけど
 いい子でいつか泣きやめば 大きな虹がかかるでしょう
 そうよ 坊や 虹は 神様の約束
 だから悲しい時は 泣きなさい 天を見上げて 泣きなさい

 いつでも笑顔を見せながら 僕を支えてくれたひと
 空から光が射すように 笑顔も天からおりてくる
 辛いと下を向くけれど 天使は空で見ているから
 ほらね 坊や 星は天国の湖
 涙 空に返して 泣きなさい 天に甘えて 泣きなさい

 そうよ 坊や 虹は神様の約束
 いつか 必ず願い叶うから 天を見上げて 泣きなさい

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April 19, 2006

めまい=迷い

フワーと軽いめまいが、朝シャッターを開けようと頭を下げた時襲ってきました。
オランダにいたとき地底に吸い込まれるような回転性のめまいメヌエル氏病に掛かった事があります。
「まずい!」と急いで薬を飲み、両親の朝食の準備を整えて朝のヘルパーさんにバトンタッチ、ベッドに倒れ込みました。

昔、入っていた宗教団体で病気も含めて物事の因果関係を勉強していた事があります。
もう随分前に辞めたので今も同じかどうか分かりませんが、会の中心の方が命がけで発見した法則を勝手に流用すると、命にかかわるとかいってましたね。
普通はお人の役に立たつことを見つけたら、どうゆう形にするかは別として、世の中の為に役立てたいと考えると思うのですが・・・
そこが宗教団体になってしまうと違うのです。
何でも囲い込んで、自分達だけの物にしてしまうのは組織を作る弊害ですね。

それはそうとして、めまいは迷いから生じると聞いたことがあります。
これが思い当たるのですね・・・
明日父が鼻の手術をする事が可能かどうかを決める、CTの検査を受けます。
父は大した病気ではないので、早速手術をして楽になりたいとその気でいます。
耳鼻科のお兄さん先生、父の年が年な上に他の病気の事も考えて、出来得る限り手術は避けたいという雰囲気が色濃く漂っています。
父の気持ちも、手術は避けたい主治医の気持ちも分かります。
もう一つ、昨年11月の骨折で延期になっている母の腕のおできの手術。
皮膚科の先生に往診してもらっていますが、母の体力の回復を待ちながら病院へ連れて行くタイミングを計っておられます。

ケアマネージャー曰く、市民病院は待ち時間が長くて体力を使うので、ひどい病気の人の行く所ではないそうな・・
確かにそんな感じなのですが、小さな病院では無理なので紹介されたのですし・・・

両親に付き添っていると、お医者さん人の顔をじっと見て「どうしますか?」って聞くのですよね。
素人に決めろと言われてもねぇ~~

神の存在を信じているので、皆にとって一番よい方向へ物事が動いていると信じています。
でもね(前文を帳消しにする接続詞ですね)二人抱えていると「迷わない」とはなかなかいかないよな~、って思っていたらふわーとめまいが襲ってきましたね。
なるようにしかならない。
神様の御心のままにと心を決めたら、めまい落ち着きました。


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February 04, 2006

神を信じていると、天然になる?

次々と起こる緊急事態の中で、天然自然体に周りからはみえるようです。
 両親と暮らす事になった時、介護は大変だとあちこちから聞きました。
それにしても、去年の十月からわけのわからない生活で一体どうなっているのだろうと首を傾げつつも、何処かで何の根拠もなく、私なんかはいい方なのだろうな~勝手に思っていました。
ケアマネさん、ヘルパーさん、内科のお医者さん、24時間体制の訪問看護士さんと良い方達に恵まれて幸せな方なのだろうな~と。
 先日父も要支援の認定が下り、両親の今後の介護についてケアマネさんと突っ込んだ話を交わしました。
母は今現在、介護5段階の中の丁度真ん中、介護3です。
ケアマネさん曰く母の状態が落ち着き次第、介護度の見直しを申請する用意をしていますが、たぶん介護5になる状態だと思いますと言われました。
介護5???一番重度の?それ以上、上が無い?
 その時、自分の置かれている状態が始めて分かりましたね。
そうとう、とろい!
なんか、大変なのか、大変でないのか、それすらよく分からなかったのですが、やっぱり大変だったみたいです。
ヘルパーさんが真顔で「よく頑張っておられますよ。だから私達も応援しているのです」と言われた時は「ウッ」と詰まりましたね。
本当に皆さんに助けて頂いています。
「きゃー、どうしよう」って言ったら「さっ」と手を差し伸べて下さる感じで。
 退院して10日目、お腹の風邪で体力を消耗したようで昨日から熱を出していて、今日は又又再入院するかどうかの騒ぎでした。
女医さんがお昼休みに往診に見え「病院を行ったり来たりするだけでも、お体に堪えますから、もう少し様子を見ましょう」という事になりました。
 その後「香川さんにすごい親近感があるんですよ。天然のところが私と似ているような気がして。アラ失礼だったかしら」と言われて皆で大笑い。
この年になるまで天然って言われたことなのですが・・・
でも思い当たる節は確かにあります。
かなり危機的状態の中にいるようなのですが(余り自覚が無い)フワッと天然自然の精神状態を保っています。
 それは神の存在を信じているので、母にとって一番良いようになると信じられるからです。
 今を、そしてこれから起こることを、ありのまま自然に受け入れようとしている姿が、天然に見えるのかもしれません。

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October 18, 2005

絶体絶命はない

お手伝いさんに事情が出来て、今月一杯で来れなくなりそうとの電話がありました。
両親がわが家の離れへ引っ越す準備と、その後の介護のお手伝いをお願いするつもりでした。
若いプロの彼女を当てにして予定をたてていました。
引越しは月末に決まっています。
前々から当てにしていたので、他に思い当たる人もなく、一瞬目の前が真っ暗になりました。
 でも何時頃からか何かあると、神様は何を示し申されたいのかな?と考える癖がついています。
 神とは「示す偏に申す」と書きます。
いつでも身の回りの出来事を通して何かを教えてくれているはづです。
 これから彼女が一番必要という時に、こういう事になったというのは、何か意味があるのだろうなと冷静に考えることができました。
とても気持のやさしい彼女は、無理を言えば何とか都合をつけてくれそうな気配があります。
私にとって彼女は両親の事を手伝ってもらうには、他の人を考えられない位最高の人です。
でも、もう一度軽く頼むだけで、ゴリ押しはやめておこうと思っています。
 なんでもそうですが、無理をすればしただけの事が後から必ず起こってきますから。
無理に何とかしようと思うと、とても疲れるし、神様の用意してくれている流れを止めてしまうような気がします。
 現実にはこの週末から絶体絶命のピンチです。
どう考えても体が2つ必要で・・・
 今日実家で、今お世話になっているヘルパーさんに、父が月末でお別れになる事を告げお礼を言っていました。
そうしたら、彼女が「近いから困ったら“会”に頼んでなんとか・・・」
市を移転すれば、今のヘルパーさんを続けてお願いするのは当然無理だと思いこんでいました。
フム、そういう手もあるのか・・・

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September 30, 2005

祈り

神の“意に乗る”ことが祈りです。
 以前は祈りと願いが、私の中でごちゃごちゃでした。
天命庵で“神の教え”を学んでいて気付きました。
祈りとは、自分の望みを神様にお願いすることではないのです。
私達はこの世に生まれいずる時、それぞれ天からの使命を持って生まれてきています。
祈りとは、その神の意を、無心に祈る事によって感じ取ろうとすることかな、と思います。
これは私の勝手な想像なのですが、きっと神は人間に対して「平和な世界を創ってほしいとか、皆で仲良くしてほしい」と日々祈っていると思うのです。
人々が神様に、あれこれお祈りをしているように。
もちろんレベルは全然違いますが。
神様の祈りは純粋に人類の為のものですが、人の祈りには純粋なものもありますが、自分の欲で祈っていることが多いですね、きっと。
 天命庵の庵主、大徳寺昭輝さんの著書「いのちの光」(春秋社)の中に、願っても叶わない理由がとても分かり易く書てある部分があります。
引用させてもらいます。
 『皆さんはよく神様に「こうして下さい」「こうなりますように」とお願いします。
そして願っても叶わないと、こんなに祈っているのに、なんで叶わないのだろうかと考えます。
答えは簡単です。
皆さんには縁がないからです。皆さんがいくら願っても、いくら思っても、縁がないことは現れてこないのです。
皆さんに良くないことは、絶対に現われてこないのです。
皆さんがわがままな願い、自分勝手な願いをしても、神様が見ていて、これはこの者のためにならないと思ったら、全部祓ってくれるのです』
 本の中のほんの一部を引用すると、全体に流れている雰囲気が伝わりにくいのですが、私はこの中に、人が生まれる時託された天の使命から大きく外れた願い事も、含まれているのかなと思っています。
 静かに祈り神の意に乗る、自分らしい人生を生きてゆく秘訣だと思います。

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August 09, 2005

神様の夢が叶いますように

これが究極の祈りです。
何故ならば神様は、地球上で人間が皆仲良く幸せに暮らしている姿を見て、楽しみたいと思い、人間を創造することを思いついたそうです。
地球上の全ての人が幸せに暮らすことが神様の願いなのです。
 世界が平和でありますように。
 争いが起こりませんように。
 天変地異が起こりませんように。
 世の中から病気が無くなりますように。
 結婚して、幸せな家庭が作れますように、等々。
日頃又は初詣でのような何かの折に、皆さんがお願いしている事は、神様の夢と同じなのです。
だから、神様の夢が叶えば、世界中の全ての人が幸せに暮らせます。
 祈りは、陽の光、空気、水等、自然の恵によって日々守られている事に、先ず感謝。
 それから、大きな事から、小さな事へ。
大きな事とは、世界の平和、人類の幸せのような。
小さな事とは、自分とか自分の身の回りの人の健康とか就職、受験のような。
だからまず『神様の夢が叶いますように』
 本当は、祈りはこれだけでいいのです。
 この中に全てが含まれているのです。

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June 24, 2005

3万人を超える自殺に思う

「一寸先は光」と言う台詞が、NHKの大河ドラマ“利家とまつ”(2002年)の中にありました。
“光”とは何でしょう?
光とは明るいもの、希望を意味します。
 宗教活動の一部として使われている“信仰”という言葉、宗教関係者に独占させておくには、もったえない言葉です。
信仰は、漢字で信じて仰ぎ見ると書きます。
「しんこう」は当て字で・進光・信光・進行・神光、等々と書くこともできます。
進行方向に光がある。
光が在ると信じて進む。
自分が進んでいく方向に希望がある、良い事があると信じること。
信仰とは自分の未来に光があると信じて、人生を前へ前へと進んで行くことです。
今自分のするべきことをコツコツやっていれば、必ず光が行く道を照らし、希望にたどり着く事ができる。
どんな困難に出会ってもどんな困難の中でも、常に先に光があると、強い信念を持って生きている人が、信仰を持っている人と言えます。
 「信じる者は救われる」とは「一寸先は光」と信じることの出来る人は幸せになれますよ、との意味だと聞いたことがあります。
神仏を信じていようが、いまいが、関係なく。
 今の世の中、特に日本人の中に“一寸先は闇だ、闇だ”と思い込んでいる方が多いように感じます。
それは結果的に、皆で一生懸命“闇”を呼び込んでいるようなものです。
それがこんなに混沌とした世の中を作り出し、希望を失って命を絶つ人達を作り出している一因ではないでしょうか。
 「一寸先は光」皆が希望を持って生きていける社会を、と強く思います。

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June 09, 2005

背負い切れない重荷

去年の暮母が入院した時、父から我家に同居させて欲しいので10坪貸してほしいと頼みこまれました。
 離れの基礎が出来た時、軽く10坪と言われたけれど“大きな~~”
 棟上が終わって“どひゃ~、でかい!!”
もっとも大変なことはお庭を貸した事よりも、91と88歳の面倒を見る事のほうですが。
 両親と同居することについて友達に言うと、反応が本当にそれぞれ違って面白い位です。
「よかったわね。よかったわね」と手放しに喜込んでくれる方。
現実が分かって言ってくれているのかなと思ったりします。
「大変ね。大変ね」と言って、知っている大変な話を聞かされたりすると、脅かされているような気分になります。
一番ぴったり来たのが、やはりご自身が高齢のご両親を見送った方で、「大変だけど、やりがいがあるわよ。自分の体に充分気を付けて、無理をしないで頑張ってね」といわれた時でした。
 人の言葉に心を惑わされないで済むのは、神を(特定宗教宗派の神ではありませんので、念のため)信じているからと有難く思います。
 キリスト教の聖書の中に“神は人に背負い切れない重荷を与えない”とあります。
 天命庵の親さまは、「人の世で起こることは、この世に生きている間に人の力で解決できるようになっている」と言われます。
 天理教の小冊子に、“まだ経験したことのない未来を案じて、不安、心配の先取りをしてしまうと、今を精いっぱい生きるという喜びがわいてこない”とあります。
 これらを総合すると、何となくどのように考えて生きてゆけばよいか分かるような気がします。
両親の介護と看取ること、私にとっては未知のことです。
でも何とかこなせるだろうと信じています。
私の抱えきれない程のことは起こらないだろうと。
そして先の事をあれこれ思い悩むよりも、一つずつこなしていこうと。
 物凄く心配症だった私が、その様に考えることができるようになって、生きてゆくのがとても楽になりました。

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May 25, 2005

平原綾香のJupiterと真理

紅白歌合戦で歌われた〈Jupiter〉、作詞-吉元由美、歌-平原綾香
ホルストの組曲「惑星」に歌詞を付けた曲です。
  Every day I listen to my heart 
 ひとりじゃない
 深い胸の奥でつながってる
 果てしない時を超えて輝く星が 
 出会えた奇跡教えてくれる
  Every day I listen to my heart
 ひとりじゃない
 この宇宙(そら)の御胸(みむね)に抱かれて
  私のこの両手で 何ができるの?
  痛みに触れさせて そっと目を閉じて
  夢を失うよりも 悲しいことは
   自分を信じて あげられないこと
 愛を学ぶために 孤独があるなら
 意味のないことなど 起りはしない
  心の静寂(しじま)に 耳を澄まして
 私を呼んだなら どこへでも行くわ
 あなたのその涙 私のものに
  今は自分を 抱きしめて
  命のぬくもり 感じて
 私たちは誰も ひとりじゃない
 ありのままでずっと 愛されてる
 望むように生きて 輝く未来を
 いつまでも歌は あなたのために

 音大生、平原綾香の魅力的な低音の歌声と、歌詞の中に真理が溢れているステキな曲です。
 神様はあらゆるところに真理を散りばめてくれています。
その気になれば日々の生活の中で触れる、人の生き様、小説、随筆、詩、映画、TVドラマ、歌等々のどんなことからも真理を学ぶ事は出来ます。
 真理に、神の教えに出会う事は特別なことではありません。
 毎日、朝が来る事。
 心臓がどくどくと脈打っている事 。
 人が生まれ、死にゆく事
当たり前の事を当たり前で済ませてしまわないで、不思議だなと、思えば誰でも気付く事のできることだと思います。
 「神の御胸(みむね)に抱かれて、ありのままでずっと 愛されてる」
 皆が気付いたら、ちょっと素敵な世の中になるかな・・・

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March 24, 2005

聖書の凄さ

アメリカの神学校で学ばれた日本人の牧師さんによる日曜礼拝のテープを、たまたま十数年前、拝聴する機会がありました。
聖書の話が一般の人にも、とても解かりやすく、約ニ千年前に書かれた書物の真理を今、現在の生活にピタリと合わせて説いていました。
宗教的に余り偏った印象も受けなかったので、一年間礼拝のテープを送って貰いました。
 私のつもりでは、一年間、約52週、(一巻のテープの約30分が聖句についての説明)で4人による福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)のうちの一人位の説明は学べるかな? と思っていたら、とんでもない!一年か掛かって12ページ、新約聖書27巻409ページの中の12ページです。
その上旧約聖書(ユダヤ教、キリスト教の聖典)39巻1326ページもあります。
毎週日曜欠かさず教会に通ったとしても、新約聖書を全部学ぶには約34年掛かることになります。
さすが聖書、されど聖書です。
 北朝鮮拉致被害者の横田めぐみさんのお母さん、早紀江さんのいつも穏やかな落ちついたご様子、冷静さの中に強靭な精神を窺わせる受け答え。
どうゆう方なのかな?と畏敬の念を持ってTV等で観ていました。
 ある時、新聞記者の「-ここまで支えたものは何だったのでしょうか」との問いに「聖書に巡り合ったことです。おかげで、小さな世界と大きな世界の両方を見られるようになりました」との答えを聞いて心から納得がゆきました。
永遠に心を支えてくれる方に出会われたのですね。
 拉致された方々とご家族の方々に一日も早く心から安らげる日がきますように、陰ながら祈らせて頂いています。

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March 23, 2005

智慧の本―聖書

クリスチャンではありません。でも聖書にとても惹かれます。
 聖書とは二千年近くの間、国籍、民族、階層、老いも若きも、知識人も無学の人も、哲学、思想に縁ある者も無き者にも、一切の制約を超えて読み手の器量に応じて真理を語り続ける不思議な力を持った不滅のベストセラーなのです。
欧米のホテルでは必ず各部屋のベットサイドに聖書が一冊置かれています。
 聖書の事を、一寸知ってみたい、でもあの分厚い本の何処からどう読んだらよいのか、皆目見当もつかないという方には、犬養道子著の『新約聖書物語』(新潮社)はお薦めできる本だと思います。
著者自身敬虔なクリスチャンなので福音書本来の立場をふまえ、それでいて宗教色はそれ程濃くなく、また一通りの歴史、地理、言語、民族背景などを、丁寧に解説しながら、とてもわかりやすく聖書を解いている、貴重な一冊だと思います。
 そしてその中に幾つも知っている聖句が出てきます。結構日本人の生活の中にも聖書の言葉が根付いていたことに驚きました。
 《始めに言葉があった》
 《求めよ、さらば与えられん》
 《信じる者は救われる》
 《人事を尽くして天命を待つ》
 《己が隣人を、己れのごとくに愛すべし》
 《狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこから入っていくものが多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない》 かの有名なアンドレ・ジイドの名作『狭き門』のタイトルはこの聖句から引用されています。
 幾つかの聖句を挙げただけでも解かるように、聖書は人生そのものの手引きとなる、心の糧のような書物です。

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March 20, 2005

聖書の思い出

アメリカの大学で、英文学の最初の授業で読んだ現代の短編小説、題も作者も覚えていないのですが、冒頭にさりげなく羊が3匹出てきました。 
 東洋人の当時宗教音痴の私には、想像もつかなかったことですが、私以外のクラスメートは、読んだ瞬間に羊と聖書のキリストの誕生の場面とをつなげて、著者が暗示しようとしていることが解かるのです。
もちろん、私もキリスト降誕の話の中に羊飼いが出てくる位の知識はありました。でも何時どんな時でも羊が出てきたら、即キリストの降誕が思い浮かぶ、というようには思考回路がなっていませんでした。 
 人種のるつぼのアメリカで、クラスメートが皆キリスト教、又はユダヤ教の信者だったわけではありません。
それでも西欧の世界では、キリスト教の思想というものが信者であるなしに関わらず生活に深く根付いている、身に沁み込んでいるのだとしみじみと感じました。
 「聖書を知らずに、欧米人を語る事はできない」そんな気がしました。
 両親の反対を押し切って、牧師の卵(神学生)と結婚した姉が置いていった聖書が、我が家にはありました。
黒い革表紙の細かい字がびっしりと書かれた分厚い本は、近寄りがたい雰囲気を醸し出していました。

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March 02, 2005

神に死角はない?

『神は目がいくつあるのかな???』と不思議に思った人は、“神”に対して白いお髭を生やした仙人のようなおじいさん的、人格神をイメージしているのではないでようか?
 宗教家は、神を言葉、愛、自然界、命、光といろいろに表現します。
全て神なのですが、私は神の本質は“光”だと思っています。
昼間は日の光となって夜は月の光となって、地球上のあらゆる物を照らしています。
月日がどんなに分厚い雲に覆われても、光は常に我々の所まで届いています。
私達はいつも神の光に包まれているのです。
人間の思いも行動も、光ならば世界中の人を同時に皆観ることが可能でしょう?
正確には私たちはいつも神に見守られているのです。
 9.11のニューヨークのテロで騒然となっている時、東洋の国で政治家が献金を記載しないで誤魔化そうとしているのを見逃してしまう、等ということは絶対に起こりません。
全てお見通しなのです。神に死角はないからです。
 『神様に見られているのなら、もっとちゃんと生きてくれば良かった』と思っているのは誰ですか?
実は私も気付いた時『シマッタ!』と思ったのですが、いいようです。
気付いた時から始めれば。
 神は全てを黙って見守ってくれています。

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March 01, 2005

神を信じる派?信じない派?

超人間のような人格神は信じていません。
 神とは漢字で示す偏に申すと書きます。
神は、宇宙創造以来ずっと今まで46億年の間、あらゆる真理を黙って示し申すことによって私達の周りに現われているのです。
 空が段々明るくなって太陽が姿を現す。朝ですよ、皆起きて活動を始めなさい。
 夕方太陽が西に沈む時、美しい夕焼けが空を染める。明日はいいお天気ですよ。
 空が段々暗くなって太陽が沈む。夜ですよ、ゆっくり休んで明日に備えなさい。
 日本においては春夏秋冬を示すことによって、春暖かくなってきましたよ作物を植えなさい。
 秋寒くなる前に実った物を収穫しなさい。
自然界の全ては神の声であり、信号です。神が現われて示しているのです。
 人間の体も同様です。神が示し申しています。
 脈拍70前後、体温36.6℃、体調は良い-体は正常に動いていますよ。
 体温39℃、体がだるい-体の中に異常がありますよ。注意しなさい。休みなさい。
 心臓をドクドクと脈打たせ呼吸をさせ、生きなさい!生きなさい!と示し申しているのです。
 神とは一つの形ではありません。
生きとし生けるものを創り出しそれを育むエネルギー、神とは自然界そのもののことだと、私は信じています。
 それを神という名で呼ぶかどうかは別として。


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January 22, 2005

亡き人を天国へ送るパスワード

人の死に出会ったら「良く頑張りましたね。ご苦労さまでした」と必ず生きていたことを労らって差し上げて下さい。
身内や親しい人に対してだけではありません、街角で出会った死にも、テレビや新聞で接した死にも、心から「ご苦労さま」と言ってあげてください。
何故ならば、亡くなった時この世でたった一人の人からでも「ご苦労さま」と言って貰った方は、『自分の人生はこれでよかったのだ。この世での本分は全うできたのだ』と安心して天の国へ戻って行くことができるそうです。
ここがとても大事なのですが、その方の人生の長さ、その方の亡くなり方、その方がこの世でどの位の仕事をなし遂げたかということとは無関係です。
この世に生を受け、生きたことに対する労いの言葉なのです。
人の生死は神の領域です。人間の目から見てその死がどのように映ったとしても、神の目には全然別の意味があるかもしれません。
 それなのに残された方達がいつまでも嘆き悲しんでいると、亡くなった方も後ろ髪を引かれる思いで気持ちよく天に帰れないのではないでしょうか。
「ご苦労さま」は、亡くなった方と見送る方の双方に必要な、大切な言葉なのです。


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January 21, 2005

生まれ出ること、死に行くこと

 生まれることがめでたきことならば、その終焉の死も又当然めでたきことのはずではないかと、いつ頃からか漠然と思っていました。
これはかなりの年になるまで身近な人の死に接したことがなかったことと、その後出会った死がそれなりに納得のいくものだったからかもしれません。
 それが確信に変わったのは、天命庵の親さまが死ぬことを出直し(でなおし)という言葉で表わし、天の国へ生まれ替わることと説いていると知った時でした。
 岩波国語辞典に“出直す”とは、《いったん戻って、改めて出かける。また、最初からもう一度やりなおす》と載っています。
 出生とは、天の国からこの世に使命を携えて生まれ出ること。
 出直しとは、使命を終えてこの世から天の国へ帰って行くこと。
この世での死は、天の国から見れば無事仕事を終えた天使が天の国に生まれること。「よく地上で自分の使命を頑張ってきたわね、お帰りなさい。おめでとう」とお赤飯を炊いてケ-キを作ってお祝いをしてもらえることなのです。
 天の国でゆっくり地上で生活していた時の垢を落とし、時が来れば又新しい使命を携えてこの世に生まれてきます。
 仏教で生きかわり死にかわりすることを輪廻(りんね)と言います。
輪廻とは少し意味が違うのですが、魂が生き続けるという考え方は同じです。


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