June 29, 2009

『南無阿弥陀仏』は全てを阿弥陀様にお任せする

との意と、時宗のご導師がご近所のおばあちゃんの葬儀で言われました。

昨年まで、娘さん(といっても67歳ですが)ご夫婦とご一緒に住んでおられました。
ご夫婦で血相変えて「姿が見えない」と近所を探し回られたり、デパートで呼び出しのアナウスを耳にしたりと、段々認知症が進んで大変そうでした。
お近くに良い民間の老人ホームがみっかり、最後はそこで迎えられました。

ご近所の方が亡くなられると、主人が自治会長をしているので、知らせがきます。
ご町内に、お通夜、葬儀の場所と日時等の緊急の回覧を出します。

ところがこの頃、これがなかなか難しいのです。
家族葬にするので、伏せておいてほしいとの事もあれば、
“近親者のみで”との知らせを受けて、そのつもりでいると、遠慮しておられる事が分かり慌てて回覧を回したりとか・・・

今回も、娘さんが「母が亡くなりました。葬儀は近親者だけでいたしますので、お宅とお向かい(遠縁に当たられる)だけにお知らせします」
と、亡くなった日時、葬祭場、お通夜、葬儀の日時が書いた紙を持って尋ねて来られました。

急な事で本当にビックリし、お悔やみを述べながら、一段落して『さて、どうしょう???』
身内だけでなさる場合は、後から正式な連絡がくるか、詳しい内容は知らせないのが普通なものですから・・・
「身内だけで」と何度も言われるけれど、ここまで詳しく知ってしまって、おばあちゃんと戦前からお付き合いのあった“地の方々”に黙っているのも心苦しいし・・・
「本当に親しくしていた方にお知らせしなくていいのですか・・・最後のお別れをしたい方がおられると思うのですが・・・」とやんわりと聞いてみると、
「あら、そうですわね~それではお任せします」
『いや・・・その・・・お任せされても困るのですが・・・何方まで知らせるかはご自分で決めて頂かないと・・・』(これ本心です)

ご導師さまが「今夜、読経の中で、何度も『南無阿弥陀仏』と申し上げました。
ご家族は、亡くなった方に“ああもしてあげたかった、こうしてあげれば良かった” 。
又、亡くなった方が“ああもしたかったのではないか?心残りがあるのではないか?といろいろ思われるでしょう。
「南無」はお任せする。全てを阿弥陀仏にお任せする。後は阿弥陀さまに全てをお任せします。と言う事です」
「そして今晩は皆さんで、亡くなられた方の“所作、笑顔、志、嗜好、思考”この5つを偲んであげて下さい」と話されました。

この頃は、お別れの仕方にもいろいろあって、どれがどうとは言えません。
でも、ご導師のお話を聞きながら、おばあちゃんを偲んでくださるご近所の方々にお知らせして、よったのではと思いました。


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June 05, 2009

北の核実験と祈り

「北朝鮮のことは本当に人間の奢り高ぶりですね。地下であのような核実験をしたり、まさに地を汚すという事は、天地の理を狂わすわけであります。
今日の大雨を見て、神様が地を汚されて清めているように思えてなりません。
人間の奢り、自分の権力を示そうとする事が、まさに様々な障害を作ってしまいます。
・・・人間の奢りというのは怖いものです。地下で核実験をして、それによって大地に歪が起こる。起こった歪は、天にも地にも現われます。
人間の奢り高ぶりで起こした事が自然界の流れを変え、水の流れを変え、奢りによって世の中の動きを皆変えてしまいます。
どうすればいいのでしょうか。
祈る事です。お詫びをする事です。
何万分の一でも皆さんがお詫びをして、それこそこのような爆弾の実験をした人々の代わりに詫びをする。
祈るという事は凄い力なのですよ。与える事であります」
天命庵の親さまが“北の核実験”について、こんなお話をされました。

遅々として進まない拉致の問題、独裁者に虐げられている人々、私達の国の上空を飛んでいった自称人工衛星、そして核実験。
いつも『世界の大国が自国の利害ばかり考えているから解決できないのではないか』と苦々しく思っていました。
勿論一番愚かなのは北のトップですけれど・・・

韓国が融和政策を実施しても、国連が事あるごとに制裁決議を出して実行しても、何も変わらないと言うか、おかしくなる一方です。

どうでしょう、こんな時は、祈ってみたら・・・
各人が、それぞれの場で、時間のある時に“北の人々の人間らしい暮らしを、真っ当な政治が行われる事を、核爆発によって汚された自然が清められる事を”心を込めて祈ってみては・・・
祈りには一銭のお金も掛からないのです。
数分間、心を込めるエネルギー以外は何もいらないのです。
人間って不思議なもので、“ただ”だと効き目が無いような気がします。
お高いと如何にも効果がありそうな気分になります。
そうゆう方は変な宗教団体に騙されやすいのですよ。
自然に神に祈るのに、お金は掛かりません。
真心をお供えすれば良いのです。
手詰まりな時は、祈れる人は祈りを奉げる。
大切な事だと信じています。

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March 15, 2009

不景気の訳と解決法

連日の不況報道、どこもかしこも「景気が悪い」「不況」「100年に一度の不景気」という言葉で溢れかえっています。
天命庵の親様が「どうしてこの様に景気が悪くなるかというと、皆が『景気が悪い、景気が悪い』と言うから、景気が悪くなるのです」と言われました。

聖書のヨハネによる福音書は「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は始に神と共ににあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった・・・」と、続きます。

皆が「景気が悪い」と思い、それを口に出し言う。
だから、皆の思っている通り、皆の言葉通り、世の中は「不景気」なのです。
何にも不思議ではありません。
当たり前のことです。
ではどうすれば良いのでしょう。

経営の神様といわれた故松下幸之助氏は「不況は天然現象ではない。我々が人為的に作ったものです。人為で作られたものは必ず人為で克服することができる」と言われたそうです。
そして「行き詰まっても行き詰まっていない、と考えなさい」「気持ちまで不況になるな」とも・・

日本は今までにもっともっとひどい時期を乗り越えてきまたはずです。
それらの時と今と何が違うのでしょう。
テレビやさまざまなメディアが、絶え間なく「不況だ。危機だ。倒産だ。人員整理だ。」と悲観論を振りまいています。
次々とそして繰り返し悪い情報ばかり流されると、人間って思考が止まってしまうのではないでしょうか。
うまくいかないのは不況のせいと全てを責任転嫁したとたん、自分で何とかしようという
気が萎えてしまいます。
「経済は人の心の関数」と言った方があります。
今、人の気持ちが完全に不況に飲み込まれています。

日本語は凄い言葉ですね。
「景気」という言葉の中にちゃんと「気」という言葉がはいっていますもの。
景気を良くするも、悪くするも気持次第。

『皆が「景気は良くなる、景気は良くなる。有難い、有難い」といえば、世の中は有難い世の中になります』と天命庵の親様は言われました。
(この景気が良くなる、とはバブルのような異常な好景気の事ではなく、まっとうな経済社会になる事です。念の為)
そんな簡単な事で!と思いますか?

でもそうなのです。
それが言霊の力であり、聖書に書かれている「・・・すべてのものは、これ(言葉)によってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった・・・」の意味でもあるのです。


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August 21, 2008

宗教、信仰、神の教えに集まる人々とは―天命庵でのお話(2)

「両親の介護でなかなか天命庵にも伺えなくて・・・・」と何気なく言った一言に、
「えっ!他に行ってるんじゃないんですか?」
「はぁ~、他って何ですか?」と私、
「・・・神さまの話を聞きく所・・・香川さんも行ってるって・・・」

3年近く両親の介護でバタバタしている間に、あらぬ噂をたてられていたような。

ここでちょっと天命庵について。
宗教団体でも組織でもありません。 
大徳寺さんが自宅を月3回無料で開放して、神さまの教えの話しを伝えておられる庵です。
昔の辻説法を、個人のお宅で開かれている、そんな感じでしょうか。
公共の場に人が大勢集まるには許可が必要な時代ですから。
氏素性を聞かれることもなく、心ある方ならどなたでも訪れる事ができます。
クリスチャン、お坊さん、他の団体で学んでいる方等さまざまな方が、毎回、1年に1度、数年に1度、一生に1度と思い思いに訪れて学んでいかれます。

そんな自由な学びの場で“他に行っているのではないか?”と噂されるとは、摩訶不思議!
それだけだったら『私も噂をたてられるほどの有名人だったんだ~』(冗談ですけれど)
お気に入りの神さまの教え《人が何事言おうとも、神が見ている気を静め》
で、お仕舞いにするところです。

「でも時々だけど・・・ず~っと来ていたんだけど・・・・」と私
「うん、本を書くために来ているって・・・」
「はぁ???」

6年前、主人が『金儲け、素人がやっていいこと、わるいこと』という本を出版しました。
金融のプロの主人が一般の方向けに、如何に分かり易く書か、心を砕いているのを側で見ていて、私も普通の方が関心を持って下さるような、分かり易い神さまについての本を書いてみたくなりました。
神さまの教えと、宗教団体の教えは別物ですから。

ほんの親しい数名の方にだけ、本の事を話しました。
「本を書く為に来ている」と言っている方がいると聞いた時『私って人を見る目がないんだ~』と、瞬間落ち込みました。

大徳寺さんに「噂をたてられているのですけど・・・」と申し上げると
「堂々としていればいいのです。堂々としていればそんな話、直ぐどこかに消えてしまいます」
「不安に思っているから、いろんなものを呼ぶのですよ」

この《堂々と》《不安》と言う言葉に“はっ”と気付いた事がありました。
親の介護の事でトラブルがあり、どうしようか考えていました。
《堂々と》していれば良いのだ、《不安》に思わなければ良いのだ、と今回の噂を通して、今私に最も必要な事を教えてもらいました。
神様も手の込んだ事をなさる、等と思うのは考え過ぎでしょうか。

人生は一話完結ではなく、連続ドラマなのです。
全ては繫がってゆく。
一っの出来事に囚われる事は無い、改めてそう感じた出来事でした。


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August 18, 2008

宗教、信仰、神の教えに集まる人々とは―天命庵でのお話(1)

『無差別の恐ろしい事件が次々と起こる原因は、今世の中に(神の)教えが消えてしまっているから。
教えを聞いていると、人を殺せなくなります。
教えを聞いていると物を生かせるようになるのです。
教えを聞いていると自然を大切にできるのです。

そう云うと、どうして宗教戦争が起こるのですか?と疑問を持つ人がいます。
宗教は教えではないのです。
神様の名前を語って、人に言うことを聞かせ、神様の名を語って人を怖がらせ、怯えさせ、そして宗教団体の上の方の人達が私利私欲の為に怖がらせてお金を集めているのです。それは本当の教えではありません。

本当の教えというのは聞けば聞くほど、心が魂が向上したいと思うものです。
教えを聞いていると心が自由になるのです。
教えを聞いていると変な事を言われても気にならなくなる。教えを聞いていると何やかや云われても関係ない。そんな小さな事でぐちゅぐちゅしているのが勿体ない。
人は神様の方だけみればいいんだけれど、集まりに来ている周りの人の姿を見るのですね。
神様はよくおっしゃいます「人を見てはいけない。神だけを見なさい」

だってそうですよ、ここに来る方が聖人君子だったら、ここに教えを学びに来ないわけです。
皆、出来損ないだから来るのです。神様が呼んでくれているわけです。
心もできて、身もできて、性格も良かったら来ないわけです。性格が悪いから頑固だから来るわけです。呼び付けられるわけです。心を変えさせて頂くわけです。
“節から目が出る”と仰るでしょう。
いろんな問題-病気、夫婦、親子、仕事-で教えを学びなさい、とお呼びがくるわけです。それだけ皆可愛いわが子だから世の中にちらしておいたら何をするか分からないから呼んで下さるわけです。有難いではありませんか。育ててくださって有難いね。
そう思ったら、こんな良い所にどうしてあんな人がいるのかしら?あんな悪口を言う人がいるのかしら?
自分の中にもそういうものがあるのです。
ここは鏡屋敷です。出会う方はご縁のある方です。自分の映し鏡のように出会うのです。お互いに映しながら直していく。
もし教えの場で、いやなことを聞いたり耳にしたら、その方を通じて自分に教えて下さっている“有難うございます”と拝むと消えていきます。
本当ですよ。
神様のお側にいるから直ぐに消して下さる』

先月、湯河原の天命庵で伺ったお話です。
「良く言えば、それだけあなた方は個性的なのです。だから神様の教えを聞いて、周りの方に伝えていく、世の中を変えていく力になれるのです」と、いつもなら上げたり下げたり笑わせながら続いていきますが、可なり厳しいお話でした。

私にとって、本当に必要があって伺った内容でした。
実は、天命庵でちょっとした噂をたてられている事を知り、困惑しているところだったのです。


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May 09, 2008

後悔と取り越し苦労

両親が我家に来た時から、90歳まで生きてきたのですから、後の人生は出来る限り好きなように過ごせばよいと思っていました。基本的にその考えは、今でも変わっていません。
それでいくと、お気に入りの絨毯は転倒の危険性があっても、父の気の済むようにすれば良いという事になります。

ところがここで問題が一つ。
父は後で“ふか~く”後悔するタイプです。もし絨毯のせいで何かが起こったら「あの時片付けておけば良かった」と後悔し続けるでしょう。後々悔いを残させないようにと思うと、父の好きなようにとはいかなくなります。
そこが非常に困るのです。

母は常に先々の事を心配し、そして過去の事をくよくよと悩むタイプでした。でも父はバリバリ仕事をするタイプだったので、晩年になるまで両親が似たような性格だとは気付きませんでした。若いころは違ったのに、年と共に似たもの夫婦になったのかもしれませんけれど・・・

私は母を見ていて、もうちょっと違う考え方、生き方があるのではないかと感じたので、天命庵で神の教えと云うか、人としての生き方のお話を時々伺っています。

こんなお話を聞いた事があります。
日々、前向きに楽しく暮らす事を阻む、2つの荷物
一つは、今さら考えても悩んでもどうにもならない過去を、いつまでも悔やんで抱えこむ荷物。
もう一つは、まだ経験したことの無い未来への不安や心配をする、取り越し苦労の荷物。
過去を必要以上に悔やまず、将来を案じないで、今日一日を精一杯プラス思考で暮らす。これが生き方の秘訣のようです。

この両親の娘ですから、私もかなり重い2つの荷物を背負っていました。
でもこの話を何かにつけ思い出し、考え方に気を付けていると、精神的にも身体的にも体が楽になり、ずいぶん健康になりました。
荷物は軽い方が楽で負担が少ないのですから、当然ですよね。

絨毯を片付けて寂しい思いを引きずるかと心配したのですが、父はすっかり忘れている様子。
歳と共に物忘れが進むのも、神様の計らいかもしれません。


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March 27, 2008

母の納骨を済ませました

2月4日の節分が、母の49日でした。
春へと季節の移り変わる節目の前日、一つの区切りとして納骨を済ませたかったのですが、
何せ実家の菩提寺は滋賀県、雪深い所です。
都会の整地された墓地とは違って、木の生い茂る自然の中のお墓は、雪が降ると納骨が出来ません。
ご住職さんが「それは“たんと”降りました。まだ裏に“たんと”あるので、何でしたらお持ち帰りになりますか?」と冗談を言われ位、今年は降ったそうです。
それでも父の子供時代とは比べものにならない程、雪の量が減って過ごし易くなったそうですけれど・・・

菩提寺は奈良時代に開かれたお寺で、広大な敷地は県名勝指定の庭園があり、重要文化財の観音様、仏画を所持しておられます。
土地がいくらあっても、都会のように「墓地好評分譲中」「セール」と上りを立てて販売しても、売れるような土地柄ではないでしょうし。
檀家の限られたお寺としては維持をしていくのは並大抵のことではないのでしょう。
時の重みを加味しても、全体が可なり草臥れた雰囲気を醸し出していました。

納骨の後墓前で、子供の頃童謡歌手だった母が好きだった童謡を歌いました。
後でご住職さんに「童謡、良かったですねぇ。難しいお経よりもお母さんの心に届いたの
ではないかな」と言って頂きました。

魂は生まれ出てきた天に戻ってゆく。
人の体は自然に帰ってゆく。
土に戻ってゆく。
静かで豊かな自然の中で、改めて自然の摂理を感じました。


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January 14, 2008

氏神さまの“どんと焼き”に参加してきました

お飾りや門松を焚き上げてその年の無病息災を願う火祭りです。
地域によってさまざまな言い伝えがあるとか。
どんと焼きの火で、書き初めの紙が高く舞い上がると字が上手くなる、火に体をあてると若返る、体が丈夫になる。
また、この火で焼いた団子や餅を食べると病気をしない、お尻をあぶれば長生きをする、残り灰を体にまぶして無病息災のおまじないをする等、いろいろな願いがこの火祭りに込められているそうです

今日は雪空で飛び切り寒い一日でした。
そんな中、例年よりも大勢の300~400名の氏子が集まって賑やかに行われました。
住んでいる神奈川県では、お団子を火で炙る神社が多いとか・・・
我が氏神さまも、長い竹の先に白、緑、ピンクの3色のお団子を刺して老若男女が集まりました。
3~4mの竹に直径5~6cmのお団子3つ、自家製の人、神社の俄か団子売り場で買った人といろいろでした。

白幡神社どんと焼き団子の3つの色には、意味が込められていて、
白のお団子は、白幡神社の大地に
緑のお団子は、新しい芽が息吹き
ピンクのお団子は、希望の花が咲く
だそうです。

消防団の見守る中、空高く火柱が上がり、炎が舞い上がり、そして青竹の爆ぜる音が響き渡りました。
地域で伝統行事を受け継ぎ守っていく大切さを思いながら、無病息災を祈ってきました。

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January 11, 2007

初詣で感じた、日本人の宗教観

4神社を初詣巡りしました。
どこの神社もちょっとお洒落をした若者でいっぱい。

数年前の調査ですが「あなたは、宗教や信仰に関心がありますか。関心がありませんか」との問いに、「宗教に関心がある」と答えた人23%。特に女性の20代ではわずか6%でした。
信じる以前の関心もないはずの神仏に、硬貨数枚で家内安全、商売繁盛、交通安全、健康、受験祈願、縁結びまで、何でもかんでも、なが~いお願い。
さぞや神様も仏様も当惑されているだろうと思うのですが・・・
その時だけ変身して信じるのか、初詣で神仏の前で祈る事は若者にとって宗教的行為ではなく年の初めの行事みたいなものなのでしょうか。

これだけ数多くの神社仏閣に囲まれて(日本全国に宗教施設はおよそ23万ヶ所)子供が生まれればお宮参りに始まり、七五三、成人祝いだといっては神社にお寺にお参りに行き、結婚式は殆どの方は神式で、又はにわかクリスチャンになって教会で、そして人生の最後はお坊さんにお経をあげてもらってお寺の先祖代々のお墓に入る。
人生の節目節目で何らかの形で神社仏閣と関わりを持ちながら、神、仏、宗教、信仰について深く真剣に考える事無く一生を過ごしていく、しかもその時々に応じて宗教を使い分けながら・・・

その時々によってまるで宗教を変えるかのような日本人の宗教に対する姿勢は、キリスト教やイスラム教のような一神教を信仰する人々から見れば無節操にいい加減に見えることでしょうね。
でもいい加減は、好い加減でもあります。
近年の世界情勢を見ていて、リーダーの宗教、宗教観が紛争を巻き起こし平和の邪魔をしているなと感じる事が多々あります。
それに比べると、なんと大らかな宗教観を日本人は持っているのでしょう。
全ての神仏を敬い大切にする。
日本独特の宗教に対する大らかさは、世界が平和に共存していく為に必要なことなのかもしれません。

ただ神仏へのお参りは、何でもかんでもお願いをする為ではありません。
先ず、平素のお礼と感謝、世の中への祈り、それからこのような努力をしますので思いが叶うようにお願いします、と祈るのが順番かなと思います。

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January 07, 2007

亥年は観音さまの心で

『イノシシは直進してポーンとやってきます
慌てず騒がずのんびりと心を磨いて、神様の教えに沿った穏やかな生き方を来年は心がけてください』
そんなお話を天命庵で去年の暮れ、亥年に気を付ける事と一緒に伺ったのを思い出しました。

本当に元旦の夜、直球で“ポーン”と来ました。
お医者さんが皆、休んでいるお正月だったから慌てましたね。
でも主人が、即「救急車を」と判断したので後は流れのままでしたけれど・・・
今の状況で慌てず騒がずのんびりとは、余ほど心を磨かないと、とてもとても無理ですわ。

穏やかに生きられたらいいですね。
先ず笑顔からだそうです。
笑顔というのは祝福です。
「笑う角には福来る」と言いますね。
『いろんな事があっても直ぐに嫌いとか嫌とか思うのではなく、先ず微笑んでから考えみること。
恐い顔をしてあちこちガンを売っていると変な方が寄ってきますよ』なんてお話もあって大笑いをしました。
『相手を嫌わず心からお相手を理解しょう、許そうとする心が大切な一年』とも。
これは観音さまの心です。
観音さまは菩薩さまであり、慈悲の方です。
92と89歳を抱えて、どこまで慌てず騒がず微笑んで過ごせるか、今年の課題です。

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November 01, 2006

人生に問題なし

天命庵に、息子さんが入院した友とお参りに行ってきました。
「神様にお参りに行けば病気が治る」等と安易に考えて行った訳ではありません。
数日前何となく気になって掛けた電話に、暗い声で出てきた彼女は「又息子が入院したの。でも前の時よりも症状は軽いのよ」との事。
それを聞いた時に即「それはよかったね。お礼参りに行こう」と誘ったのです。
病気になったのに“お礼参り”なんて普通の人が聞いたら不思議に思われるかもしれません。
でもね、病気で入院しているとはいえ、しっかり生きているのですよ。
有難い事ではないですか。
生きてさえいれば、これから先どんな良い事が起こるかもしれませんもの。

案の定、午後の親様のお話は「問題なし」から始まりました。
「人が様々な問題に遭遇した時、この問題はどうなるのだろうか、これからどうなっていくのだろうか、折角ここまで築き上げてきたのに何でこうなったのだろうか、等とクヨクヨしないで、先の事は何にも問題ないという心になって通る事がとても大切です。
神様に全てを委ねる、信じる心を大切にした時に大きな道が現れてきます」とのお話。

「人が天の国からこの世に生まれ出る時、神様から困らないようにと、命の衣に宝石を一つ縫い付けてもらって生まれています。
宝石とは神聖、仏教で言えば仏性、良い心のことです。
その宝石を取り出す方法は、神の教えを知る事です。
神の教えに出会い良い考え方が出来るようになると、宝石は現れて、問題は問題で無くなります。
皆、素晴らしい宝物を頂いて生まれてきているのですよ。
困った時、大変な時に助けになるものは、昔から、生まれた時から皆与えられているのです。
天命庵に来たことのない人でも、誰でも皆、宝石を持って生まれてきているのです」
 
お話を伺っていて楽しくなってきました。
皆の心の中に美しい宝石があるのです。
きっと世界で一番美しいダイヤモンドよりもっと輝く宝石が・・・
それを神様の教えで磨いて良い心遣いが出来るようになればキラキラと光り輝いて、全ての物事を光に変える力を皆備えてこの世に生まれてきているのです。

神様の教え出会うには、釈迦様、キリスト様、マザーテレサさんやガンジーさんのような偉大な方々の考え方、生き方の中に、世界の文学の中に、童謡の中に何処からでも気付く事ができます。
いつもこのブログに書いていることですが神の教えに触れるのに、特別な方法は必要ありません。
宗教組織や団体に入らなければ、得られないものではないのです。
自分の心の宝石を磨きたいと望めば、日々の生活のあちこちに気づく為の種はまかれているます。
心の中の宝石、輝かせなくては勿体ないですね。

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September 07, 2006

皇室と宮中のお祭り

お子様が無事お生まれになりましたね。
おめでたい話は嬉しいでものです。

小泉首相による皇室典範の提出をまるで阻止するかのような御懐妊。
ここでもし女子誕生だと、改正論に弾みがつきかねません。
それで男児誕生でよかった、と思っています。
男児誕生で、お世継ぎ問題に終止符という事にはならないでしょう。
でもめんめんと続いてきた歴史の流れをもし変えるのなら、もっと時間をかけて議論をし、熟慮すべきではないでしょうか?
お生まれになった御子が、その機会と時間を与えてくださったような気がしています。

このたびのことで神様は何を示し申されたのかな?といつもの癖で考えています。
やはり日本の国の象徴に男性を望まれたのでしょうか。
もしそうだとしても男尊女卑とか、男女を不平等に扱ったからではなく、単に役割の上での事だと思います。
この世には男性には男性の、女性には女性の役割があります。
命を生むことが女性にしかできない事一つをとってみても、男女が何もかも平等などという事はありえないのですから。

天皇家の本来のお仕事は、日本の国の為に「お祭り」を執り行なわれることです。
毎年25回以上もおこなわれているそうで、天皇のスケジュールは全てこの宮中祭祀に合わせておられるようです。
それ位大事な事なのですが、その宮中祭祀の中には女性が出席できないものあるそうです。
それで男児がお生まれになったかどうかは、私共には知る由もがなです。
ただ小泉首相が考えていたほどには、簡単な問題ではないように感じています。
神事が深く関わっているのですから。

静かにご成長を見守りたいですね。

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August 16, 2006

靖国参拝-気になる事

「世界が平和になりますように。この美しい宇宙船地球号で皆が仲良く助け合って暮らせますように。紛争が収まり穏やかな世界になりますように」と、毎朝私は祈ります。(その他諸々も祈りますけれど)

平和は、地球上の何処からでも祈れます。
お国の為に亡くなられた方々への感謝も鎮魂も、その深い思いがあれば何処からでも奉げる事ができると信じています。

どうしても「靖国神社でなければならない」そしてそれが「心の問題」と本当に思っているのならば、できるだけ人知れずひっそりと参拝すれば充分ではないでしょうか?
この問題に対しては、いろいろ複雑な思いを抱いている人が内外両方にいるのですから。

騒ぎすぎるマスコミにも責任があります。
そしてそれに安易に乗る国民にも問題があります。

首相と官房長官では立場が違うでしょうが、安倍さんは4月にマスコミに気付かれずに参拝しています。(タイミングを見計らって漏れ聞こえるようにしましたが・・・)
お二人とも参拝したことを公にしたい、公にならないと参拝した意味がない理由があるのでしょうね。
そこが、とても引っ掛かるのです。
神社という神聖であるべきはずの場を、政治的に利用しているような気がいて。
自民党の票集め、そんな気持ちがあるのならば、人として本当に悲しい事です。
それはお国の為に亡くなった方達に対して、又心から恒久平和を願っている人達に対して、とても非礼な事だと思います。

「お国の為に戦場で散った命への感謝と鎮魂、そして恒久平和の誓いを立てる」と純粋に本気で思っているのならば、その思いを政治の中に是非生かして実行して頂きたい。


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July 24, 2006

道徳と宗教-うなぎを食べながら思った事

昨日は土用の丑の日でした。 
『金子みすず全集』(JULA出版局)の「お魚」について、以前「朝日新聞」に載っていた記事を思い出しました。
 
海の魚はかはいさう。
 お米は人につくられる、
 牛は牧場で飼はれてる、
 鯉もお池で麩を貰ふ。
 けれども海のお魚は
 なんにもお世話にならないし
 いたずら一つしないのに
 かうして私に食べられる。
 ほんとに魚はかはいそう。
 
公立校の道徳の授業でよく取り上げられる詩だそうです。
そして教師向け参考書にはこんな目標が載っているとか・・・
「自分の命を支えてくれる動植物に感謝しよう」 
「自分のことだけでなく、他の立場も考えよう」 
「小さな命を大切にする心を育てよう」
一方、ある仏教系の高等学校では《道徳的には、人間は他の動植物の生命をいただいて生きているから感謝。宗教としては、他の生命を奪うことなしには生きられたい私に気づくこと。悲嘆、悲しみ》
人間の悲しみに気付くことから教えるという。
キリスト教の学校なら《動植物を食物として与えてくれた神に対して感謝》だろう。
神道なら《生き物の霊に頭を下げるの》だろう、と書いてありました。
 
世の中にはいろんな考え方があってもちろん当然です。
でもここまでが道徳だ、ここからは宗教だと区別する前に、まず自分の頭で自由にちょっと考えてみてはどうでしょうか。
 
もしあなたが“うなぎ”だったとしたら、かば焼きにされて(白焼きでもいいのですが)人間に食べられた時、「あー美味しかった。ご馳走様。お陰でこの猛暑もなんとか乗り切れそうだわ。有難う。」と心から感謝されて喜ばれるのと、「ご馳走様、おいしかった。でも人間、他の生き物を殺生しなければ生きていけない悲しい生き物なのね。」と思われるのと、どちらが嬉しいでしょうか?
私が“うなぎ”だつたら、どうせ食べられるのなら、喜んで感謝されて有難がられた方が嬉しいと思います。
ほんとうに喜んで食べてもらえたら、食べた方の身について血となり肉となり、その方の中で生き生きと活かされるような気がするので・・・
“うなぎさん”も浮かばれると思うのです。
 
この考え方が道徳的なのか、宗教的なのか、よくわかりません。
皆がそれぞれに自由に考え、自然に感じられるままで、良いのではないでしょうか?
どこまでが道徳でどこまでが宗教と、心に線を引く必要はないように思います。

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June 24, 2006

世の中がおかしいのは何故?

自然に対して感謝をすること
命に対して感謝をすること
食べ物や水の恵みに感謝すること
お陰の力に感謝すること

人を敬うこと
家族を思いやること。
親を敬うこと
お年寄りを大切にすること
子供を大切にすること

自分を育ててくれる先生を大事にすること
お世話になった方々を大切にすること
人生の先輩を敬うこと

昔から日本人が大切にしてきたこれらの心を、信仰心といいます。
戦後日本はこの大切な信仰心を忘れてしまいました。
疎かにしてきた結果が、今数々の信じられないような事件が起きている原因です。

信仰心というと、神仏に手を合わせことと考えている方が殆どだと思います。
宗教団体に入る事と信仰心を持つことが同じになってしまっています。

親を大事にして親孝行をする。
お世話になった先生や知人の顔を潰すような事は絶対にしない。
いろんなことがあっても、人を立て人に対する思いやりを持ち続ける。
この心は、宗教心ではなく信仰心なのです。
神仏を信じている、いないに関わらず、人としての基本なのです。

今の日本には自分の事しか考えていない人が溢れています。
人の事はソッチノケ、自分さえ良ければの世界が、数限りない事件を生み出しているのです。

先週の日曜日、天命庵で親様の信仰心についての話を聞きながら、今の世に致命的に欠けているのは宗教心ではなく信仰心なのだとしみじみ感じました。

やはり人の心が変わらなくては、この混沌とした世界は変えられないのです。
戦後61年かけて失った心を取り戻すには、どれだけの年月が掛かるのでしょうか?
気が遠くなりそうですが、頑張らなくては。
このままでは、まともに暮らしていく事が難しい世の中になってしまいますもの。

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June 12, 2006

お布施もいろいろ∸和顔施、心施、法施、財施、

お布施とは、自分が心からプレゼントすることだそうです。
必ずしもお金ではないと瀬戸内寂聴さんは言います。
例えば*:
財施-お酒、お菓子、家で取れたお米や野菜等、物を施す事。
心施-やさしい心を施すこと
優しい言葉を掛けてあげれば、それが立派なお布施だそうです。
顔施-顔を施すってなんでしょう?
にっこりした笑顔を見せる。
特に悲しそうな顔している人には優しい顔をしてあげる。
和やかな顔を施すことを和顔施ともいいます
法施-皆さんがお寺にお布施を差し上げると、お坊さんはそれに対して仏法の法-仏様の教えを皆さんに施してくださる。
本当にいろいろあるのですね。
法施は別ですけれど、他の3つは誰にでも出来そうです。
特に和顔施、素敵な言葉ですね。
この頃両親の介護で忙しく、穏やかな笑顔忘れていることがあります。
そんな自戒を込めてこの文章を書いています。
お金も物も要らないただ、“にっこり”するだけで、人の心を明るく、気持ちよく、楽しく、
軽やかにすることができる、和顔施。
和顔施に心施も込めると最強のお布施になりそうですね。
簡単な事程続けるのは難しい。
でも是非、日々努力したい事です。

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June 06, 2006

秋田小1殺害、何という事件!

切ない!
事故死を再調査してほしくて近所の子を事件に巻き込んだ親、その為にわが子を失った親。
子を思う親の気持ち痛いほどわかります。
でも、でも、だから他の子を、近所の子を、娘と仲のよかつた子を殺害出来るものなのでしょうか?
亡くなったお嬢さんが喜ぶと思ったのでしょうか?
呆然としています。

命とは、生きるとは、死ぬとは、働くとは、そういう人間にとって根源になることを今の日本の社会はうやむやにしています。
きちんと説明できる、教えられる人が殆どいないのです。
本当は、宗教家が社会に、親が子供に教えていくべきことだと思うのですが。
多くの宗教家はお金儲けと、大きな組織を作って権力を誇示する事に一生懸命。
多くの親は、子供の成績を上げ、良い学校に入学させる事に一生懸命。
心を育てる、人間がいかに生きてきくべきか、を説く人が場所が不在の国なのです。

昔の人は人が亡くなると「息を引き取りました」と言いました。
息を引き取る。
亡くなった方の息=命を、残された者達が引き継ぐのです。
皆で命を繋いでゆくのです。
亡くなった時、それはその人の寿命が尽きた時。
亡くなり方が無念であったなら、その死を無駄にしないように、自分の出来る事で努力すれば、死を生かす事だってできるはずです。
折に触れて思い出してあげれば、亡くなった方は皆の心の中に生き続けるのです。

死に対する考え方は人によっていろいろでしょう。
でも子を亡くした彼女の心を支え、人の死について一緒に考え悩んであげる人が周りにいなかった、その事が哀れに思えます。

二人の小さな魂が天の国に帰って、安らかでありますように。

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June 04, 2006

「切に生きる」

瀬戸内寂静さんがよく使われます。
“切に生きる”これは道元禅師(鎌倉時代の禅僧で、日本曹洞宗の開祖)の言葉だそうです。
ただ、今を一生懸命に生きる。
私達には一寸先のことは分かりません。
仏教ではそれを“無常”といいます。
無常-常ならず。
世の中、次の瞬間何が起こるか分からない。
ですから、
お釈迦様は「明日のことは思いわずらうな」そして「過去のことをくよくよするな」
キリストさんは「明日のことは思い煩うな」
天命庵の親様は「過去を必要以上に悔やまず、未来を先案じしない」
皆、同じような意味の事を説かれています。

今さらどう悩んでも、もがいてもどうにもならない過去の問題をいつまでも心から離さないで抱え込んでいると、今を楽しむことができません。
まだ経験したことのない未来への不安、先案じを心に抱いていると、今という時を疎かにしてしまいます。
未来を心配しても起こる事は起こる。

だから、過去のことをくよくよしない、明日のことも思い煩わない、今日今を精一杯楽しんで切に生きなさい。
そこに本当の生きている喜びがわいてくのですと・・・
「切に生きる」これが生きていく極意だそうです。


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May 04, 2006

「あなたの五分を分けてください」

と描いたカードと小さなロウソクを添えて、曹洞宗の若いお坊さんが道ゆく人々に配ったそうです。
ロウソクが点灯している5分の間に、世界中で起きている事を考えてみようと呼び掛けて・・・
5分間に:
☆ 世界で1,260人の人が生まれ、1,540人が死んでいます。
☆ 世界中で、87人が飢えと貧困のために亡くなっています。
☆ エイズで28.5人、戦争と暴力で7.5人、事故で51人、自殺で8.5人が亡くなっています。
☆ エアコンを一日5分停めると34.1円の節約。
   34.1円で12.2人分のエイズの薬が買えます。
   シャワーを一日5分、1ヶ月停めるとなると558円の節約。
   558円で27.9人分のポリオワクチンが買えます。
☆ 0.57平方キロメートルの土地が砂漠に変わっています。
   サッカー・グラウンド50個分の面積です。
  (☆のデーターは中外日報からの引用です)

忙しい忙しいと、慌ただしく過ごしている“時”をちょっと停めて、世界中で起こっている出来事に思いを馳せてみてはどうでしょうか。
時間の貴重さ、凄さ、残酷さに気付けるはずです。
たかが5分、されど5分。
宇宙船地球号の上で起こっている事は、何らかの形で私達の生活とつながっているはずです。
マスコミに報道されるような、大事件が起きた時その時だけ世界の人々の事を考えるのではなく、いつももっともっと関心を持つべきだと思います。
世界的に見たらまだまだ平和な恵まれた国、日本。
でも地球上では5分という短い時間にも、悲喜こもごものドラマが繰り返されている事をいつも心に停めて、世界中の人々の幸せを祈り続けてきたいものです。


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April 30, 2006

「ブッシュさんの方が小泉さんより、ちょっとましかな~」と

横田さんと大統領との面会実現に対する小泉首相のコメントをニュースで見ながら呟いたら「大分ましだよ」との返事が夫から返ってきました。
コメントは『米国が拉致問題に大きな関心を寄せているといる表れ。拉致は許すことのできない人権侵害である。日本も米国と協力し、世界も関心を持ってほしい』
「クールなことはいいことだけど、当事国の首相がまるで他人事のようなコメントするのはいただけないな~」と。
“日本も米国と協力し”と言う下りおかしいと思いませんか?
日本は拉致被害者を大勢出している当事国ですよ。
北朝鮮のような国を相手にする時は、国際世論に訴える事は大事だと思います。
でもまず日本ができる限りのことをして、その上で他の国にも力を貸して下さいと訴えるべきではないでしょうか?
早起江さんはじめ拉致被害者の方々は、人事を尽くしておられると感じます。
でも日本の政府にはまだまだ出来る事があるような気がします。

「闇に包まれたところから少しずつ少しずつ、やっとここまで来た」
横田早起江さんに母親の偉大さを感じます。
アメリカ公聴会での演説、国語の教科書に載せたい位のお手本のような内容と文章だったそうです。
あれだけ筋の通った聡明な女性、そうはいないのではないでしょうか。
私の勝手な考えですが、早起江さんは大きな大きな使命を神様から頂かれているような気がしています。
ご自分のお嬢さん、めぐみさんとその他の拉致被害者を救う為だけではなく、世界中の人権侵害を受けている人達の為に動いておられるような・・・
彼女の姿の中に、神への美しい真直ぐな信仰を見る思いがします。
祈りが一日も早く叶いますよう、願っています。

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April 25, 2006

病人力

赤瀬川原平氏が「病気旅行に出かける」とのタイトルで「う・ら・ら」という健康冊子にエッセイを書いていました。
氏は画家であり作家だそうです。

《病気はチャンスだと思う。
成りたくて成る人は一人もいない。
でも時と場合によっては成ってしまう。
自分から成れないものに成ったのだから、これはチャンスだと思うようにしている。
一定期間、病気の世界を通り抜けていく。
いわば病気観光、病気旅行だ》

病気を旅行や観光に例えるとは凄い発想!
でも確かに似たところがあるような・・・
健康な時には見えなかった風景、気付かなかった事に気付く。
日頃、考えもしなかった人生や生死について深く熟考するチャンスでもあります。
よく病気になって人生観が変わった、と言う人がいます。
病人力を得たのでしょうね。
病気を含めてどんな事でも、出会ったことを経験として生かす、人生の糧にしていく、大切なことだと思います。
人間は何からでも学ぶことができるようになっているようです。
それを生かせるかどうかは、全て受け取り方、考え方次第ですが・・・

《自分が病気になって思うことは、人体の病気と地球の天気はどことなく似かよっていることがある。
自分の体が晴れたり曇ったり、だいたいの理由はわかるのだけど、それが高じて嵐になったり、雹(ひょう)が降ったりして驚く。
健康なときは体は体にまかせているが、病気になると体がありありと見えてくる。
僕はそれをチャンスだと思うのである》
子供の頃から体の弱かった私には、とても頷けるエッセイでした。
私が得た病人力は、神の存在を知った事です。
そして病気旅行には終わりを告げました。

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April 19, 2006

めまい=迷い

フワーと軽いめまいが、朝シャッターを開けようと頭を下げた時襲ってきました。
オランダにいたとき地底に吸い込まれるような回転性のめまいメヌエル氏病に掛かった事があります。
「まずい!」と急いで薬を飲み、両親の朝食の準備を整えて朝のヘルパーさんにバトンタッチ、ベッドに倒れ込みました。

昔、入っていた宗教団体で病気も含めて物事の因果関係を勉強していた事があります。
もう随分前に辞めたので今も同じかどうか分かりませんが、会の中心の方が命がけで発見した法則を勝手に流用すると、命にかかわるとかいってましたね。
普通はお人の役に立たつことを見つけたら、どうゆう形にするかは別として、世の中の為に役立てたいと考えると思うのですが・・・
そこが宗教団体になってしまうと違うのです。
何でも囲い込んで、自分達だけの物にしてしまうのは組織を作る弊害ですね。

それはそうとして、めまいは迷いから生じると聞いたことがあります。
これが思い当たるのですね・・・
明日父が鼻の手術をする事が可能かどうかを決める、CTの検査を受けます。
父は大した病気ではないので、早速手術をして楽になりたいとその気でいます。
耳鼻科のお兄さん先生、父の年が年な上に他の病気の事も考えて、出来得る限り手術は避けたいという雰囲気が色濃く漂っています。
父の気持ちも、手術は避けたい主治医の気持ちも分かります。
もう一つ、昨年11月の骨折で延期になっている母の腕のおできの手術。
皮膚科の先生に往診してもらっていますが、母の体力の回復を待ちながら病院へ連れて行くタイミングを計っておられます。

ケアマネージャー曰く、市民病院は待ち時間が長くて体力を使うので、ひどい病気の人の行く所ではないそうな・・
確かにそんな感じなのですが、小さな病院では無理なので紹介されたのですし・・・

両親に付き添っていると、お医者さん人の顔をじっと見て「どうしますか?」って聞くのですよね。
素人に決めろと言われてもねぇ~~

神の存在を信じているので、皆にとって一番よい方向へ物事が動いていると信じています。
でもね(前文を帳消しにする接続詞ですね)二人抱えていると「迷わない」とはなかなかいかないよな~、って思っていたらふわーとめまいが襲ってきましたね。
なるようにしかならない。
神様の御心のままにと心を決めたら、めまい落ち着きました。


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March 17, 2006

蒔かぬ種は生えぬ。蒔いた種は育てねば実らぬ-1

若いころ海外に住んでいて、日本の友からの便りをいつも心待ちにしていました。
そんな私を見て、母は『蒔かぬ種は生えないのよ』とよく言ったものです。
筆不精の私は余り手紙を出していませんでした。
でも懐かしい日本からの情報を待っていました。
確かに出さない手紙に返事はこないのです。

人生も同じです。
愛されたい。
幸せになりたい。
認めてほしい。
良い仕事がしたい。
どうすればいいのでしょう?
種を蒔けばよいのです。
愛がほしかったら、周りの人を愛することです。
幸せになりたかったら、人を幸せにすることです。
人に認めてもらいたかったら、人を認めることです。
良い仕事に出会いたかったら、今の仕事を精一杯することです。

ほしいことを先ず自分から行う、これが“種を蒔く”の意味です。
種を蒔かなくては実はなりません。
何もしないのに、庭に美しい花が咲いた、おいしい果実が実った、という事は殆どありえません。
たまに、風や鳥が種を運んできて美しい花を咲かせることがあったとしても、それは偶然の出来事で滅多に起こらないし、長くは続かないと思います。
一生偶然を待っているわけにはいきません。
自分で種を蒔く努力をして、初めて芽が出てくるのだと思います。


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March 03, 2006

天上天下唯我独尊-3 『世界に一つだけの花』

余りに素敵な歌詞なので、著作権に失礼をして書かせてもらいます。

 花屋の店先に並んだ いろんな花を見ていた
 人それぞれ 好みはあるけれど どれもみんな きれいだね
 この中で誰が一番だなんて 争うこともしないで
 バケツの中で 誇らしげに しゃんと胸を張っている

 それなのに 僕ら人間は どうしてこうも比べたがる?
 一人一人違うのに その中で一番になりたがる?

 そうさ 撲らは 世界に一つだけの花
 一人一人違う種を持つ 
 その花を咲かせることだけに 一生懸命になればいい
 
 困ったように 笑いながら ずっと迷っている人がいる
 頑張って咲いた花はどれも きれいだから仕方ないね
 やっと店から出てきた その人が抱えていた
 色とりどりの花束と 嬉しそうな横顔

 名前も知らなかったけれど あの日僕に笑顔をくれた
 誰も気付かないような場所で 咲いていた花のように
 そうさ 僕らも世界に一つだけの花
 一人一人違う種を持つ
 その花を咲かせることだけに 一生懸命になればいい

 小さい花や 大きな花 一つとして 同じものはないから
 No.1にならなくて いい
 もともと特別な Only one

本当にあなたは、この世に一人しかいない尊い存在なのです。
自信を持って、胸を張って、自分の個性を大事にして生きていってほしいな~~。
“もともと特別な Only one ” なのですから。

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March 02, 2006

天上天下唯我独尊-2 『世界に一つだけの花』

生きていく上で大切な考え方がギッシリ詰まっていて、それでいて分かり易くて魅力的な歌。
こんな凄い曲を創った、ミュージシャン槇原敬之ってどんな人かな?と、常々思っていました。

歌の核心となった言葉“ナンバーワンよりオンリーワン”は、槇原氏が「ご神職」と慕う神社の神主さんの話が元になっているそうです。
「昔から僕は仏教が大好きで、お釈迦様の言われた『天上天下唯我独尊』という言葉がこの『世界に一つだけの花』だったりします。どの宗教がどうとかでなく、今の時代に一番求められている考えかただよね。僕にできるのは世の中を正すことじゃない。”余(自分)の中”を直すことを通じて、それを伝えるのが役目かなと」
やっぱりそうでした。
『天上天下唯我独尊』と『世界に一つだけの花』は繋がっていたのです。

それだけではなくて、素敵な考え方を一杯持っている方です。
21歳でデビューし、立て続けにヒット曲を飛ばし、その後事件を起して逮捕。
頂点とどん底を経験したからこそ、得られた境地なのでしょうか?
「音楽を取ったら自分には何も価値がない」という考えから「一生懸命生きていれば、音楽じゃないことをやっていても生きていけるという確信が持てるようになった。自分のことが一番じゃなくて、人のことが一番だって生きている人は、誰も悪いようにはしない。人が悪いようにしても神様が放っておかないよ、という心の強さを得て、本当に楽になりましたね」
分かりますね。
どの宗教がどうとかではなく、どの神様がどうとかではなく、自分のするべき事を真面目に一生懸命していれば、人間より偉大な存在が守ってくれる、と気付いた時から、本当に楽になりましたもの。

「人はさびしがりやであるべきだと思うよ。さびしくないように、相手のことを考えるから。多少は不安な方がいいんだよ。そのほうが助け合えるからね」
人が助け合いながら生きていく事の大切さをさり気なく。

それにしても一番グサリと来た言葉は《「余(自分)の中」を直し伝える 》
ブログに分かったような事を書いておりますが、まず自分から正さなければ!ですね。

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February 28, 2006

天上天下 唯我独尊

金子みすずの“私と小鳥とすずと”や、 SMAPの“世界に一つだけの花”を、天命庵のお庭で“天上天下 唯我独尊”の話を聞きながら思い浮かべていました。
いろんな表現の仕方があるけれど、真理は一つ、同じ事を意味しているのではないかな?と思いながら。
 天上天下 唯我独尊、お釈迦様が誕生した時、四方に七歩ずつ歩み、右手で天を左手で地を指差して唱えたと言われる言葉です。
『天にも地にも、唯、我、独りにして尊し』
宇宙間に自分より尊いものはない、と独り善がり的な意味にとられていますが、自分の存在の尊さが理解できれば、自ずと他の人の尊さにも気付く事が出来るはずです。
お釈迦様のいう唯我独尊とは、天にも地にもみんなそれぞれ一つしかない大切な存在、かけがえのない尊い存在であるという、あらゆる生きとし生けるものの命の尊厳を言い表わしていると思います。

 詩人の金子みすずさんの有名な詩に『私と小鳥と鈴と』というのがあります
 わたしが両手をひろげても 
 お空はちっともとべないが
 とべる小鳥はわたしのように 
 地面をはやくは走れない
 わたしがからだをゆすっても 
 きれいな音はでないけど
 あの鳴るすずは私のように
 たくさんな歌は知らないよ。
 すずと、小鳥と、それからわたし、 
 みんなちがって、みんないい

みんなちがって、みんないい
地球上の全ての物は皆違う、そしてそのままで、ありのままで皆いいのです。
皆、天にも地にも唯一、ただ一つだけの尊い存在です。
 今この事実を若者に自信をもって伝えられる、大人が、親が、先生がどれ位いるでしょうか?
自分の存在価値の基本と成る意味を・・・
天上天下唯我独尊、この真の意味がわかれば、リストカットする若者も、薬物に溺れる人達も、自殺する人も、他人を傷つける人も、いなくなるはずです。
 自分は尊い存在。
 周りの人も尊い存在。
 一人一人が掛け替えのない存在。
 誰にとって?
 神様にとつて!
 地球上の全ての物は神様が創ったオリジナルなのですから。

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February 23, 2006

千の風になって-後に残された人へ

大切な方を亡くされた全ての人の心に届けたい、素敵な歌があります。

 『千の風になって』     作者不詳
   
 わしのお墓の前で 泣かないで下さい
 そこに私はいません 眠ってなんかいません

 千の風に 千の風になって
 あの大きな空を 吹きわたっています

 秋には光になって 畑にふりそそぎ
 冬はダイヤのように きらめく雪になる
 朝は鳥になって あなたを目覚めさせ
 夜は星となって あなたを見守る

 わしのお墓の前で 泣かないで下さい
 そこに私はいません 眠ってなんかいません
 
 千の風に 千の風になって
 あの大きな空を 吹きわたっています

 あの大きな空を 吹きわたっています

アイルランド共和軍(IRA)のテロで亡くなった24歳の青年が「僕が死んだときに開封して下さい」と、両親に託していた封筒に残されていた詩だそうです。
そして後にニューヨークの同時多発テロで亡くなった父親をしのんで11歳の少女が朗読したこともあり、この一編の短い詩が欧米や日本で静かに広がっているそうです。
 先日、天命庵で庵主の大徳寺さんから聞きました。
“人間の死は全ての終わりではない。永遠の別れではない”と優しく語り掛けている詩は、日頃天命庵の親様から伺っている真理の話と同じです。
姿かたちは無くなっても、周りの誰かが亡くなった人の事を覚えていたら、いつまでも心の中に生き続けているのです。
お釈迦様、キリストさま、マザーテレサや多くの賢者の説かれた神様の教えの話をよく聞きます。
そんな時、数千年数百年数十年の時を超えて、残された教え、考え方、思いが生き生きと私達の心の中で息づいているのを感ずる事が出来ます。
まるで今もなお生き続けているかのように・・・
 人は亡くなっても、その人の記憶を抱き続けている人がこの世にいる限り、その人は生きているのです。
 そしてその人の美しいしい行為、優しい言葉、暖かい笑顔は、千の風となって、われわれに希望を与え続けるのです。

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February 07, 2006

臓器移植と、もし自分なら・・・

「子供の誘拐」日本人はまさかそこまではしないだろうと思っていたのですが《04年に法務省は刑法に「人身売買罪」を新設し、臓器を得る目的の人身取引にも同罪を適用できるようにする。》と加えました。
残念ながら日本でも関係のない話ではありません。
 臓器移植をそこまでしてするのには、人の命を救うという「純粋な行為」とは又別に、関係者の巧名心と移植をすると医療費とそれに付随して何億というお金が動く面があるからです。
お金儲けの為なら手段を選ばない、今の制度はそうゆう輩に隙を与えている面もあるようです。
 社会の歪はいつも弱い者へ、貧しい者へ、と向かって行きます。
今の臓器移植のあり様に無理があるからそうゆう歪が出てくるのでかないでしょうか?
 それぞれの立場からいろいろな考え方があって当然です。
しかし臓器移植、生殖医療、ヒトクローン胚作り等の医療技術を進めていくには、日本を含めた世界の国々の社会がまだ精神的に充分成熟していないような気がします。
成熟していないと言うより人間が本来持っていた自然に、生きとし生けるものの命に対する、畏敬の念、畏怖の念を文明の驚異的な進歩の前に置き去りにしてしまったといった方が適当かもしれません。
 そもそも生とは何か?死とは何か?生きるとは何か?
人の命に直接関わる仕事をしている人達ですら、自分なりの考えを持っている人は少ないのではないでしょうか。
 例え学術的に先へ先へと進むことが可能であったとしても、もう一度原点に戻って踏みとどまる限界を見極めるべき時なのではないかと思います。
全ての物事には超えてはいけない一線があるはずです。
 もし私が臓器移植をしなければ生命が危ないと宣言されたとしたら・・・
残された時間で自分の出来る事をして、天の国へ帰っていきたいと思っています。
死は誰にでも公平に訪れる物であり、私だけが死ぬわけではないのですから。
死は突然訪れてくれた方がいいような気がしますが、「告知」が大勢になりそれも選べない時代になってしまったようです。
 天の国へ帰ったらゆっくり休養した後、新しい身体と新しい使命を携えてこの世へ又舞い戻って来るつもりです。
今世でし残した事は、それからゆるりと焦らずに・・・
 そうなれるように、努力中です。

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February 06, 2006

臓器移殖の行方を考える-2ー

の記事によると《米国のキリスト教界は99%が賛成している。
臓器の提供は愛の実践と見なされ、信仰の証と受け止められる。
ユダヤ教正統派では91年に認める決議を出した。
日本の仏教協会は臓器移植法が議論された頃、6割以上が他人の臓器を求めるのは「我欲」で
ある、死者は仏であり神聖な存在であるとして反対した。
賛成する宗派は臓器提供は布施の行為、心臓死にこだわること自体が生に執着していると主張した。現在はあまり意見が出ていない。》
 宗教界も本当にさまざまですね。
と言うよりも何事もそうですが、それぞれが自分で判断して決めることであって、所属している団体の“お上”が決めたから全員その考えに従う等というのは、恐ろしいことなのですが・・・
 《生命は神の領域》と思っています。
現代の医学や科学を超えた向こう側にまだ解明されていない命の神秘がいっぱい在るかもしれません。なにしろ人の命は目に見えないのですから。
人の死を脳死で決められるものかどうか、とても疑問に感じています。
 《体はこの世に生きている間、神様から借りているもの》とも思っています。
借りているものを貸主に無断で又貸しというか、無断贈与してもよいものかどうかも思い悩んでいます。
 移植希望者に対して提供者が少ない現状で、何が起こってくるかと言うと提供要件をどんどん緩和していきます。
アメリカ、カリフォルニア州では、交通事故、行き倒れなどで脳死状態(当然心臓が動いて息をしている)の時、二十四時間身元を捜して、身元不明だったら臓器を移植してもよいことになっています。
スペイン、ベルギーなどの国々は、本人が生前に何も意思表示をしていなければ提供に同意したとみなされます。
 その上開発途上国では移植用臓器の摘出を目的とした子供の誘拐までおきています。  次へ

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February 05, 2006

臓器移植について

「中国での臓器移植、日本人急増」「待たずに手術」「法制度は不備」「提供、死刑囚も多く」
との字が大きく朝日新聞の朝刊に踊っていました。
 低次元の話で申し訳ないのですが、日本で臓器移植法が議論され出した頃(97年)、痛みに滅法弱い私が一番に思ったことは「痛そー」でした。
 それが《臓器移植の行方を考える》の朝日新聞の記事を読んで案外当っていたのかもしれないと思いました。
《00年に英国の麻酔学の専門誌に「脳死者は臓器摘出時に痛みを感じている可能性がある」との警告論文が出て議論を呼び、「移植大国」の米国では、臓器の摘出時に、麻酔や筋弛緩剤を打つ。
無麻酔でメスを入れると体が動くためだ。
動くのは、脳以外の体の反射が残っているからと医学的には説明されているが、その状態は「死んでいる」としていいのか。
激痛は本当に感じていないのだろうか。》とありました。
 かわいい盛りの我が子が、自分の大切な人が臓器移植で命が助かるとしたら、受けさせたいと思うのが人情だと思いつつも、臓器移植に対して、何かすっきりしないものを感じ続けていました。
 それが『新しい漢方』〈東洋の知と医療〉寺沢捷年著(考古堂刊)を読んで、もっと自然に在りのままに考えれば良いのだと思いました。
 本の中に生物学者、池田清彦教授(山梨大学)の臓器移植についての明確な考えが書かれています。
《人間の体は非所有物である。
人間は誰だって自分で生まれてこようと思って生まれてきたわけではない。・・・
自分の存在というのは「管理権」はあるけれども所有物ではない。
自分の健康を維持して、元気で天寿を全うするというのは、ある意味では義務もあるし管理するという立場ですよね。
この体は決して自分が買って得たものでもないし、人から何か分けてもらったものでもない。
そうするとこれは「非所有物」ですね。
したがって臓器を売ったり、買ったりするというのはそもそも間違いだし、死んでからもそれを人に提供したりするというのは、善意と言われるかもしれないけれど、本来やってはいけないことだ》と。
生物学者の立場からこのように考える方がいることを知って大きな発見でした。
 意外に感じるのですが、宗教界は総じて肯定的な意見です。          次へ

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February 04, 2006

神を信じていると、天然になる?

次々と起こる緊急事態の中で、天然自然体に周りからはみえるようです。
 両親と暮らす事になった時、介護は大変だとあちこちから聞きました。
それにしても、去年の十月からわけのわからない生活で一体どうなっているのだろうと首を傾げつつも、何処かで何の根拠もなく、私なんかはいい方なのだろうな~勝手に思っていました。
ケアマネさん、ヘルパーさん、内科のお医者さん、24時間体制の訪問看護士さんと良い方達に恵まれて幸せな方なのだろうな~と。
 先日父も要支援の認定が下り、両親の今後の介護についてケアマネさんと突っ込んだ話を交わしました。
母は今現在、介護5段階の中の丁度真ん中、介護3です。
ケアマネさん曰く母の状態が落ち着き次第、介護度の見直しを申請する用意をしていますが、たぶん介護5になる状態だと思いますと言われました。
介護5???一番重度の?それ以上、上が無い?
 その時、自分の置かれている状態が始めて分かりましたね。
そうとう、とろい!
なんか、大変なのか、大変でないのか、それすらよく分からなかったのですが、やっぱり大変だったみたいです。
ヘルパーさんが真顔で「よく頑張っておられますよ。だから私達も応援しているのです」と言われた時は「ウッ」と詰まりましたね。
本当に皆さんに助けて頂いています。
「きゃー、どうしよう」って言ったら「さっ」と手を差し伸べて下さる感じで。
 退院して10日目、お腹の風邪で体力を消耗したようで昨日から熱を出していて、今日は又又再入院するかどうかの騒ぎでした。
女医さんがお昼休みに往診に見え「病院を行ったり来たりするだけでも、お体に堪えますから、もう少し様子を見ましょう」という事になりました。
 その後「香川さんにすごい親近感があるんですよ。天然のところが私と似ているような気がして。アラ失礼だったかしら」と言われて皆で大笑い。
この年になるまで天然って言われたことなのですが・・・
でも思い当たる節は確かにあります。
かなり危機的状態の中にいるようなのですが(余り自覚が無い)フワッと天然自然の精神状態を保っています。
 それは神の存在を信じているので、母にとって一番良いようになると信じられるからです。
 今を、そしてこれから起こることを、ありのまま自然に受け入れようとしている姿が、天然に見えるのかもしれません。

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January 05, 2006

“おみくじ”って当たる?

数年、大吉が多いので調子に乗って、年に何度も引きます。
微妙に当たっているような、外れているような、どちらとも取れる絶妙の言い回しに、いつも人事のように感心しながら読んでいます。
 今回のは、“吉”『こちらによくすれば あちらにわるく 右によくすれば左にわるく悪く常に心の迷いあり・・・』
思わず苦笑してしまいました。
大当たり。
ただ今の私の状態そのまんまです。
 91歳の父と88歳の母の介護をしています。
これが間にはいっていろいろありまして・・・
母は体重23kg、昨年26日から熱が下がり切らず肺炎の疑い、痴ほう症もあり、壊れ物要注意状態で介護をしています。
父は年相応にいろいろありますが、年の割には元気です。
それでも母が壊れ物要注意状態という事を理解することは無理なようなのです。
 私は正月三が日、救急車を呼んで入院すべきか、様子を見ているべきか、ハムレット状態で過ごしました。
 去年、母が再々骨折するまで、父と母は二人だけで住んでいました。
それで父は自分が母を守らなければという気持ちが強いのと、私に迷惑をかけないようにとの思いから、一生懸命母の面倒を見ようとします。
それが母の状態を把握できていないので、うっかりすると母の命取りになりそうで・・・
 何事も起る時は起こる、無事な時は無事と腹を括りました。
両方に程良く接して、できるだけ見ないようにして、後は神任せしかないと。
父の熱意を神さまはかっていて下さるかもしれないと思いつつ。
 4日になっても熱が下がらず、母も入院することに同意したので、主人の車で10日前まで入院していた病院に連れて行きました。
 誤嚥性肺炎と診断され即入院が決まりました。
 一年間に4度目の入院は気の毒ですが、父は病名を聞いて、母が壊れ物のように気を付けなければならないと、やっと理解できたようです。
 余りにそのものズバリだったので、小さな小さなおみくじの中に、神様がいつも見ていますよとメッセージをくれたような気がしました。
 おみくじの内容が変わりそうなので、引き直しに行ってこなくては(笑)

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June 10, 2005

主の“あしあと”

目に見えぬ神の存在をとても上手に言い表している、心に響く詩があります。
 『あしあと』
 わたしは夢の中で見た
 神と共に海辺を歩む自分と、空の銀幕に映る
 過ぎ去ったわたしの生涯のすべての日々とを
 なんと砂の上には、毎日の歩みをしるすふたりのあしあとが
 並んで残っているではないか
 ひとりのはわたしの、もうひとりのは神の
 しかし、ところによってはひとり分のあしあとしか見当たらない
 それは、よりによってわたしの人生で
 最も困難でつらく、耐えがたかった日々にあたっている
 そこで、私は神に不服を言った
 「神よ、わたしはあなたと共に生きることを選び
 あなたは、いつもわたしと共にいると約束してくださいましたね
 それなのになぜわたしを独り、置き去りにされたのですか
 それも、私が最もつらかった日々に」すると、神はお答えになった
 「わが子よ、わたしがあなたを愛していることを
 あなたはよく知っているはずだ
 わたしは一度もあなたを見捨てたことはない
 ひとり分のあしあとしか残っていないところは
 まさにあなたを腕に抱きあげ、わたしが運んであげた日々だったのだよ」
                        by マーガレット、F、パワーズ
この詩を読む時“神様ってこうゆう存在なのだな~”といつも思います。
 常にあなたと一緒にいる。
 いつも黙って見守ってくれている。
 あなたが大変な時、黙って手を差し伸べてくれる。
 あなたが気付こうが、気付くまいが・・・
神とは、そういう存在なのです。
たまには“有難う”と感謝してみませんか?

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April 25, 2005

人事を尽くして天命を待つ

因果関係というよりも、逆因果関係とでも言った方がよいことを学んでいるのではないかと疑問を感じたのが、某新興宗教を卒業した大きな理由です。
それと、世の中は因果関係だけで動いているのではなく、それ以上の何かがある、何かが働いているのではないかと漠然と気付き始めたからです。
 その力が神の働きだと実感するのには、まだまだ長い時間が必要でした。
 逆因果関係とは自分の求める結果(~大学に入学したい。病気を治したい。嫁姑問題を解決したい)を得る為に原因を作っていくことです。
その何処が悪いの?と聞かれそうですが、往々にして結果が目的となって原因が手段になりやすいのです。
目的を志を持って努力することはとても大事ですが、結果ばかりを追求する余り、原因作りの動機が不純なものになる恐れがあります。
人間の欲は限りない物です。自分の欲を満たすために次々と因果関係を利用する。
時として人生に策略を用いる、そんな風に感じられました。
 その点、正統派因果関係は努力を積み重ねたことが原因となって、自ずと良い結果が現れてきます。
現われてきた結果が自分の望んでいたものと違う場合もあるかもしれません。
しかし本来結果だけが全てではないはずです。
結果にたどり着く過程で出会う種々の経験、一生懸命な努力を通じて人間は成長していきます。
人生において無駄なことは一つもありません。
回り道もまた素敵なことです。
 ノーベル化学賞を受賞した田中さんは、自分の研究をこつこつと地道に努力し、素晴らしい結果を実らせて受賞しました。ノーベル賞を地位を名誉を得たくて努力したわけではありません。努力していたら後から自然に結果が付いて来たのです。
 新約聖書に《人事を尽くして、天命を待つ》とあります。
時により因果とは人智を越えた力も含まれるのでしょう。
そして人智を超えた力とは、今を一生懸命生きている処にのみ生まれる力なのです。
不器用でも少々的が外れていても、一生懸命が一番大切なことなのです。
 某会で学んだことは私にとって神につながってゆく貴重な体験でした。
 今でもとても感謝しています。

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March 07, 2005

人も宗教もいろいろな訳

地球が創造される時、五大陸を創りそれぞれの気候風土を違えました。
 太陽と月、海と陸、晴と曇と雨、熱帯と温帯と寒帯、人間と動物、男と女、白人と黄色人と黒人、魚と鳥いろいろな自然現象がありいろいろな人や物があって、地球は調和、バランスが保たれて存在しています。
もし仮に太陽だけ、雨だけ、人間だけ、男だけしか神が創造しなかったとしたら、地球は長くは存続しなかったでしょう。
人間の肌の色も、体型も、一人一人の姿形も違えたのは偶然ではなく、神の深い意図があったのではないかと思います。
いろいろな気候、人種が存在すれば、いろいろな生活様式があり、そこには違った風俗習慣、宗教が生まれるのは必然のことです。
真理は一つです。
 でもそれぞれの置かれた立場によって、その国その国の、その民族その民族の、その地方その地方の、その家その家によって、その集団をまとめていくルール(宗教)が違っていて,当然ではないでしょうか。
そこには違いは在っても、どれが上とか下という差はありません。
 例えばAという地域に、全く気候風土の違うBの人たちが、Bの教えを布教するというのはちょっと違うような気がします。
お互いがお互いの違いを認め合い、尊重する事ができて、初めて地球上に平和が来ると思います。.
 宗教によって人間が心の自由を奪うことも、奪われることも、束縛することも、されることも、支配することも、されることも絶対に有ってはならないことだと確信しています。

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March 04, 2005

宗教って家庭のしつけ?

宗教は〈ウ冠に示す教え〉と漢字で書きます。
ウ冠は住居の屋根の形を表し、主に住居に関することを示す符号です。
 宗教とは家庭の中で示す教え、親の躾が本来の意味だと私は思っています。
 神が人類を創造したと信じています。
ということは、神は人間の親であり、地球上の人間はみ~んな神の子、兄弟です。
地球全体が一つの大きな大きな家族だということにもなります。
 宗教とは大家族がお互いを尊重し合って仲良く生活していく上での躾。
そして人が人として如何に生きていくかの手引きのようなものだと思います。
その為に神が示し申された真理だと。
 朝起きたら《おはよう》と挨拶をする。
 食事の前には《頂きます》と食物に感謝をする。
 あなたの隣人を愛しなさい。
 人の過ちを赦しなさい。
 慈悲の心を持ちなさい。
当たり前の教えばかりなのですが、当節守れない人が多いですね。
その上、その当たり前の教えを巡って、何故か宗教戦争まで起こっています。
どうしてか、考えてみませんか?

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March 03, 2005

宗教って、な~に?

 NYの大学、入国審査表、病院の診察、ボランティア等の申込書には必ず『あなたの宗教』を書く欄がありました。
20代の私は何のためらいもなく無邪気に、『なし』の欄にチェックを入れていました。
それを見て、黙って首を傾げる人、「何も信ずるものがないのか?」「仏教徒ではないのか?」等と不思議そうに聞く人といろいろでした。
 TVや映画で見た記憶のある人もいると思いますが、アメリカの大統領の就任式でも、裁判所で証言する時でも、聖書に手を乗せて神に宣誓します。
それに欧米のホテルの部屋には、必ずベッドサイドに聖書が一冊置いてあります。
宗教や神と生まれた時からごく自然に関わりを持っているのです。
欧米ではどうも「信じる宗教を持っていない」ということは、人間としてかなり異常事態のようだと気が付くのに、当時宗教音痴だつた私でさえそう時間は掛かりませんでした。
 丁度日本において「神を信じているのよ」とでも言おうものなら、“この人を信用して大丈夫かな?”“変な新興宗教に誘い込まれるのではないかな?”と警戒されるのと同じような雰囲気を相手に感じた、と表現したら一番分かり易いでしょうか?
面白いですね、内容は正反対なのに、相手の反応は全く同じなのですから。
 ただ今私、神を信じています。(特定宗教団体や組織には属していません)
欧米で感じたのと同じ訝しげな視線を、今度は日本で感じる破目になりました。 つづく

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January 14, 2005

初詣、誰に祈願してるのかな?

 お正月、氏神様に初詣に行った。
 小さな神社で一度に数人ずつの参拝なので長い行列ができていた。
 しばらくして行列が全然前に進まないことに気が付いた。
金融関係に携わっている主人は「不景気だからなー」と呟いた。
私は「世界規模で異常なことが起こっているものなー」と思った。
それにしても一人一人の祈願が、例年になく長~~いのです。
気持はとてもよくわかるのだけど、でもあなたが神仏だとして、普段「神なんているわけない。信じない。関心ない」と言っている人たちから、突然お正月に硬貨数枚であれもこれもお願いされたらどう思います?
神様は人がいいから、(神がいいからかな?)出来るだけ希望にそうように頑張って下さるかもしれないけれど…。
 一年に一度でも皆が神仏に手を合わせることは素敵なことだと思いつつ、日頃信じていないはずの神仏に長~~い祈願をしている姿は、誰にお願いしているのかな?とちょっと不思議に感づるひと時でした。
 私はまず去年一年つつがなく暮らせたことにお礼を述べ、全世界が平和で安泰であることを祈りそれから我が家の平穏無事をお願いしました。
私のも結構長かったかな?

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